8

と、後ろから声がした。

美香は振り返る。

視線の先には愛想良く微笑みを送るマスターがいた。

それに釣られて美香も小さく笑い、会釈すると店を出た。

戻ろう、暗がりのこの場所から元の来た道へ。

コツ、とハイヒールの音が店から遠退いていった。



店の中が静寂に包まれている。

誰も口を開こうとしない。

その所為か、場の空気がやや重い。

音がするのは唯一、マスターがさっきまで美香が使っていたカップと受け皿を洗う音。

だが、それがぱっぱと終われば優しく拭き、片付ければまた静かになる。

その静寂を破ったのは、意外にも今まで沈んでいた夜谷の声。

「あー、かったるい」

夜谷は伸びをし、体をほぐす。

そんな夜谷の呑気な態度に遠くで影山の溜め息が聞こえた。

多分、夜谷の様に呆れているに違いない。

「起きていらっしゃっていたんですか」

マスターは今まで寝ていたとは思えない夜谷の声にそう言った。

「ん、まぁさっき帰った客が来た時から。だけどなんか起きるのが、めんどくてさ」

「夜谷さんらしいですね。その無駄を嫌うと言いますか、余計な事には首を突っ込まないと言いますか」

うっ、と夜谷は息を呑む様な顔をした。

少し顔が苦笑いしている。

「あ、あのさ、闇野さん」

「はい、何でしょう?」

闇野、とそう呼ばれたマスターは微笑んで夜谷を見る。

さっきの言葉が効いているのだろう。

顔が参ったな、と言っている。

「悪いけど、何か食べさせてくれない? 小腹空いた」

話から逃げた。

だが、闇野はこれ以上深くまで追い詰める事はしなかった。

代わりに左側の壁に掛けられている木製の振り子時計を見る。

十一時過ぎ。

大分、遅い時間帯である。

本来なら店を閉めてもいい時間のはずだが、そこがこの店の少しいい所。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る