15 権力とはなにか?(2)

ミサ〉 制度化の話へ踏み入る前に、「社会システム論」の看板で有名なドイツの社会学者ニクラス・ルーマン(1927-1998)についてふれておこう。ルーマンにとって「権力」とは、「コミュニケーション・メディア」だった(1)

 たとえば極端な話、我らは異星人とコミュニケーションできると思うか?


我聞〉 ムリですね。完全に他者ですから。言葉が通じない、とかいう問題以前に、そもそも価値観とか根本的に違うでしょう。


ミサ〉 それでも関わらざるを得ないとしたら、異星人と我らとの間で、どんなコミュニケーションが発生すると思う?


我聞〉 想定不能です。なにがどう展開するか、さっぱりわからない。


ミサ〉 そのとおりだ。逆に日本人同士なら、あるいは今ここにいる我ときみなら、お互いの間でなにがどう展開していくのか、ある程度予想できるってもんだ。たとえばさ、我はいきなりきみから殴られたりはしない。そういったことが普通に前提されている。コミュニケーションというのは、こうしたら、こうなるだろう、とか、こうなることはないだろう、とか、お互いに行動パターンがある程度想定できないとさ、そもそも成立困難だろう。

 だから異星人とコミュニケーションするというのはハードルが高すぎる。

 ちなみに、この類の議論に興味をもったなら、柄谷行人さんの『探求Ⅰ』(講談社学術文庫、1992)とか超オススメだぞ。あわせて読んでみるとよい。


我聞〉 いいです、だいたいわかりましたから。

 要するに、相手がなにしてくるか完全に予測不能な人とは関係しずらく、逆に普通は、日常的にはね、みなさんなんつーか、ある程度の幅の中で関係しあってる、ってことでしょう。


ミサ〉 そのとおり。幅だ、幅がある。無数に考えられ得る、コミュニケーションの潜在的な可能性、その幅を狭めていくのがさ、ルーマンの言う「コミュニケーション・メディア」の仕事なんだよ。 

 もっと言うと、その「コミュニケーション・メディア」が、いくらでもあり得る可能性の範囲をな、ある程度狭めてくれるからこそ、だからこそ、コミュニケーションが成立する、ということでもある。

 でな、「権力」もまたそのようなメディアの一つなんだよ。


我聞〉 「権力」がコミュニケーションの幅を狭めてくれる、と?


ミサ〉 たとえば先生と生徒の間で「権力」がメディアとして作用しているから、先生がなにも教えてくれないということがなく、生徒が授業をボイコットすることもなく、「教える-学ぶ」という範囲にコミュニケーションの幅が狭くなり、そのような関係性が持続的に反復されていくようになる。

 「権力」は「コミュニケーション・メディア」として、潜在的には無数にあり得る関係性の幅を狭めてくれるのだよ。


我聞〉 なるほど、なんとなくわかりました。で、それと〈権力〉の制度化と、どうつながっていくんです?


ミサ〉 つながりまくりだ。たとえば芸術家と弟子がいる。そこには〈権力〉関係がある。で、その芸術家が新しく弟子を追加し、また弟子をとり、また弟子をとり、と繰り返していくうちにさ、たくさんの弟子に囲まれるようなったとしよう。弟子が一人だった頃は、その〈権力〉関係は個人的で、都度都度、臨機応変、いろんな関わり方に開かれていたとしても、大所帯になると違ってくるだろう。先生である芸術家がなすべきこと、あるいは弟子の務め、等々、お互いの仕事が定まり、関係性がルール化されていったりするだろう。


我聞〉 もう個人的なつながりじゃないですからね。先生が相手するのは特定の弟子、ではなくなり、もはや弟子一般ですから、そうなると。弟子が一人ならルールなきルールでもいいでしょうが、増えてくると、みんなでシェアできるよう、ある程度ルールを決めてくれないと困ります。


ミサ〉 平たく言えば、それが制度化。〈権力〉はそのように制度化されていくことで、一つにはコミュニケーションの幅がより明確になり、明確になるからこそ、安定的に作用するようになる。

 また、制度化されることで、いわば特定の文脈から離れて一般化していく。先生と、ある弟子との間でしか通用しない個人的ルールではなくなり、弟子一般に通用するようになる。いわば固有名による関りから匿名的なものへと変わる。


我聞〉 なるほど。


ミサ〉 もっと言うと、一般化された〈権力〉関係というのが具体化していくと、組織、が誕生する。あるいは一般化された〈権力〉関係が組織内に浸透していないと、そもそも組織が組織として機能しない、とも言えよう。

 これが、我の言う〈権力の制度化〉。


我聞〉 〈権力〉は制度化されることで安定的に作用する、と言ってた意味がわかりました。


ミサ〉 ちなみに、さっきは弟子が増えてく話をしたが、〈権力〉が二者関係で閉じているうちは、その関係性は一般的にならないし、匿名的にならないし、制度化しない、というか、制度化する必要がない。抽象的な表現になるが、〈権力〉が三者関係で作用するようになったときこそ、制度化への道が開けていく。

 ここでも、じつは〈第三項〉がキーなんだ。〈第三項〉が二者関係に割り込んできたとき、〈権力〉の作用は一般的に、社会的になる。やはり人間社会に安定と秩序をもたらすものは、〈第三項〉なのだよ。


我聞〉 あ、でも、なんかヘンじゃないですか。新しくやってきた弟子が〈第三項〉なんて。弟子は〈上方排除〉でも〈下方排除〉でもないでしょうに。


ミサ〉 いや、〈第三項〉だと思うよ。たとえば芸術家と一番弟子が蜜月な関係で、いつまでも二人だけの宇宙に留まっていたのであれば、新しくきた弟子は邪魔者以外の何者でもない。芸術家が一番弟子に「わしが認めているのは、おまえだけ」なんて言ったりして、新しい弟子を一番弟子と一緒になって踏みつけるなら、これってまさに〈下方排除〉の一形態だろう。

 一方で、新しい弟子がさ、「平等に扱ってくださいよ~。ボクも同じ弟子なんですから」ってな具合にさ、それでもやはり、師匠と一番弟子との間に割って入ろうとするなら、楔を打ち込みなら、この場合、新しい弟子の目は、いわば「裁きの目」となる。師匠は師匠らしくふるまうべきであり、一番弟子だけと優遇しちゃならん、そんなんであれば師匠とは言えない、と圧をかけてくる、「裁きの目」だ。


我聞〉 そうですかね? 新入りの弟子が師へ「裁きの目」を向けるなんて、おかしくないですか。


ミサ〉 ちょっと言い方がマズかったかもしれん。ただ、二人だけの宇宙を破壊せんとする眼差しは、やはり〈上〉からの圧があるものであり、〈上方排除〉だと言えよう。


我聞〉 だから、弟子が〈上方排除〉ってヘンですって。


ミサ〉 そうだよ。ゆえに、師匠が師匠らしくなることで、新しい弟子は一番弟子と同類に、横並びになり、下へ降りてくる、水平的になる。

 一方で、代わりにね、今度は師匠のほうが〈上方排除〉されるようになる。

 これで、〈上〉にいる師匠と、その下で横並びになる弟子たち、っていう小さな社会ができたぞ。

 どうだ、ほら。力学的には、やはり新しくやってきた弟子は〈第三項〉なのだよ。ただ、そのポジションに、遅れて師匠がな、入ることになる。


我聞〉 なんかこじつけのような・・・・・・でもまぁ、とりあえず言いたいことはわかりましたよ。


ミサ〉 さてと、〈権力〉の話が少し落ち着いてきたので、最後に〈与える権力/奪う権力〉についてふれておこう。


我聞〉 長かったですね、回り道が。


ミサ〉 いや、本来なら、ガチで権力とはにか? ってやりだしたら、ホント終わらないぞ。それだけで一冊の本になる。かなりテキトーにはしょったわ。


我聞〉 でしょうね。


ミサ〉 首長制社会における首長がさ、〈与える権力〉を体現してる、って我は言ったよな。


我聞〉 はい。


ミサ〉 首長の言葉は「命令⇒服従」を強いるものではないにせよ、首長は〈与える〉ことによって下々からな、共同体のリーダーとして担がれてるわけだけだからさ、そこにはやはり〈権力〉が作用してる、とみなせる。首長がリーダーとして〈上〉にいることに、下々は合意してる、って側面あるんだからさ。


我聞〉 まぁたしかに。


ミサ〉 ことほどさように、〈与える権力〉は共同体の内側から立ち上がってくるものだと思う、基本的には。


我聞〉 となると、〈奪う権力〉は? 共同体の外側から? たしかさっきそう言ってたような・・・・・・


ミサ〉 イエス。もっと厳密に言うと、共同体と共同体の間から立ち上がってくるものだと思う。つまり簡単に言うとだ、奪う対象は、まずは身内ではなく、よそ様、他人、敵だろう。敵対する共同体から奪ってくるのだ。


我聞〉 身内から奪うのではなく、敵から奪うってのはわかりますが、でもそうなると、それ、〈権力〉じゃなくて、ただ単に暴力じゃないですか。


ミサ〉 そのとおり。まずは暴力だよ。ただ、さっきも言ったとおり、暴力が生みだす関係性というのは持続しない。ひたすら相手の共同体を抑圧し続ければ、その共同体は潰れてしまうか、追い詰められて反旗を翻してくるか、そんなところだろう。奪う、という関係性を持続的なものにするためには、殺さず生かしすぎず、ではないが、適当なところでの妥協点が要る。それも、お互いの間でな。

 このとき、暴力は〈奪う権力〉へスライドしていくのだよ。


我聞〉 となると、〈奪う権力〉は共同体の外側との関係性、ってことになるんでしょうが、でも税金とか、共同体においても普通に〈奪う権力〉があるような・・・・・・


ミサ〉 外へ向いていた〈奪う権力〉は折れ曲がり、共同体の中へな、いわば内在化していくのさ。具体的な話をするとだ、「穀物国家」のところでふれたが、たとえば敵から捕虜を連れ帰ってきた場合、彼/女らは「我々」共同体の内側で暮らすことになるだろう。で、奪われることになる。〈奪う権力〉のターゲットとなる。

 このへんの話はもっと後でもう少し詳しくふれたいとは思うが、まぁ要するに〈奪う権力〉もまた、なんだかんだで共同体内で作用するようになる、ってこと。

 一方で、〈与える権力〉のほうが外へ向くこともある。共同体から共同体への贈与、がそれだ。現代でも、たとえば先進国から途上国への援助があるくらいだからね。


我聞〉 起原はどうあれ、最終的には、〈与える権力/奪う権力〉ともに、共同体内でも共同体間でも作用するようになる、ってわけですね。


ミサ〉 イエス。ついでにいうと、現代の税金は〈奪う権力〉とは言えないぞ。たしかに奪われてる感はあるけれど、めぐりめぐって、市民サービスとして返ってくるんだからさ。専門用語で言うところの「再分配」ってやつだ。奪い、かつ与える。強引に表記するとするなら、〈奪う権力⇒与える権力〉かな。


我聞〉 まぁそうでしょうね。感情的には〈奪う権力〉にみえちゃいますがね・・・・・・


ミサ〉 〈権力〉の話はこの程度でやめておこうぞ。マジでエンドレスになるから。


我聞〉 わかりましたよ。




(註)


1 ニクラス・ルーマン『権力』長岡克行訳、勁草書房、1986


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