3 国家を定義するという無理ゲー(3)
ミサ〉 さてと、最後に国家の要件三つ目、③主権の話をしようか。ウェストファリア体制って聞いたことある?
我聞〉 もちろん、ありますよ。あれでしょ、カトリックVSプロテスタントの宗教対立にはじまり、神聖ローマ帝国VSスウェーデンほか周辺諸国とか、さまざまな勢力の覇権争いにまで発展した、最後にして最大の宗教戦争とか呼ばれる三十年戦争(1618-1648)、その結末ですね。
ミサ〉 で、あくまで教科書的にはどんなふうに教わった?
我聞〉 戦後、ウェストファリア条約とひとくくりにされる一連の講和条約を経て、神聖ローマ帝国は弱体化、支配下にあったたくさんの領邦が自立し、オランダやスイスも独立、周辺諸国と肩を並べるようになったって・・・・・・
ミサ〉 いわゆる主権国家が軒並み誕生し、それら主権国家がお互いにパワーバランスを保ちつつ、国際関係を築くようになった云々って、習うよな?
我聞〉 えぇ、そう習いましたよ。
ミサ〉 それまではな、領地を支配する君主がいたとしてもだ、その上にローマ教皇を頂点とする宗教的権威があるし、今でいうドイツ方面だと神聖ローマ皇帝までいる。ある領域をワントップで排他的に統治できている、とは言い切れない。いわゆる完全自立の主権国家になっていないわけだ。
ところがさ、ほぼ西洋全土を巻き込んだ三十年戦争のいわば反省から、もう泥沼の宗教対立はこりごりだッしぃ、つーことで、宗教的権威をかついで争うことはヤメ、神聖ローマ帝国も事実上の死亡診断となり、上位権力のプレゼンスがそれぞれ減退、で、みなさん「おいらが大将」的横並びワントップな主権国家体制ができあがりました、おしまい、ってなストーリなんだろうがね、教科書的には。
でも実際は違うんだ。1648年を境にさ、いきなりすべてが突然変異のパラダイムシフト、なんてことはありえんだろ。そのへんの詳細はさ、たとえば明石欽司さんの『ウェストファリア条約 その実像と神話』(慶応義塾大学出版会、2009)を読んだりするとよくわかるんだが、結構分厚い。あるいは『ウェストファリア史観を脱構築する 歴史記述としての国際関係論』(山下範久・安高啓朗・芝崎厚士編、ナカニシヤ出版、2016)なんて本もある。
長くなるから細かい話はしないが、ウェストファリア体制イコール横並び主権国家の誕生ってのは過大評価ないし妄想であり、道のりはまだまだ遠い、ってわけで、いずれにせよ主権国家体制というのはさ、この時点、17世紀においてもだ、まだ不完全燃焼ってことなんだよ。だったらさ、国家の要件に③主権を必須にしちまうと、それまでの西洋に国家なんて存在しなかったことになっちまうぞ。
我聞〉 まぁたしかに、そうなるとヘンですね。
ミサ〉 だから結局、①領域、②国民、③主権の3点セットで国家を語るなら、最近の国家に限定しないとうまくいかないぞ、ってことになるわけ。それにな、そもそも我はその類の国家、最近の国家に絞ってきみと語り合いたいわけじゃないんだ。大昔まで遡って議論してみたい。そもそも国家ってなに? ってな、根本から問うてみたいんだ。
我聞〉 わかりましたよ。そういうことなら、なんかもっとこう、べつの観点から考えてみる必要アリですね。
ミサ〉 当然そうなる。しかも、だ。これは余談になるが、ついでに言っておくとだ、①領域、②国民、③主権の3点セットというのは、現代の国際社会に限ってみても、じつは案外ビミョーだと思うぞ。
我聞〉 どういうことですか?
ミサ〉 3点セットは国家というものの根本を突いていない。どちらかというと実用的な、実践的な定義だと思う。使うための定義だな。
たとえば、③主権というのは、対外的にも対内的にもよそから干渉されない自立した実効力をもってるってことだろ。これはな、相手国からするとだ、たとえるなら大人にみえるってことよ。大人だよ、大人。大人のお付き合いができる、大人。子どもといろんな約束事をしてもさ、無意味だろ。責任能力がないからな。親に依存してる子どもは自立してないから。
これを国際関係に置き換えるとだ、親国があり、子国があったとしたら、そんな子国と話をしても仕方がないわけ。子国と約束しても、親国が「そんなの関係ねぇ」と顔だしてきたら終わるだろ。だから主権のない、あるいは主権が制限されてるような子国とはマトモなお付き合いができない。そんなわけで国際関係的にはさ、まぁ要するに国と国とがつながるときにはね、どんなヤツならお互いにお付き合いできるのか、ちゃんとした国だと言えるのか、対象を見定めておかないといけないわけ。これは実用的なニーズ。
で、そうなるとだ、なるほど①領域、②国民、③主権が備わっている大人なら、オレたちと同じ大人な国家であり、対等に交われるな、約束事もできるな、と判断できるわけよ。つまり3点セットというのはさ、その3点が備わっていれば国家とみなそうという考え方はさ、それはそれで実務的な、実践的な用は足りてしまうわけ。なにも支障がでないなら、そんな感じの定義でべつにいいじゃんか、となる。そういう意味で3点セットは実用的な定義なんだろうと思うし、そう割り切ってしまえばさ、それなりに有意味ではある。ただし、それ以上のものではない気がするな。
我聞〉 だったら少なくとも現代においては問題なし、ってことですね? 使用に耐えうる、と。
ミサ〉 実用性があるうちは問題なしだろう。ただ、実用性というのは時代の流れとともに変わってしまう。長らくイメージされてきた国際関係というやつは、繰り返しになるが、主権国家と主権国家が対等なプレイヤーとして並んでいるパワーゲームだった。そんなものが全地球を一様に覆ってしまったことなんて未だかつてないんだけどね。実際、最近の国際情勢を概観してもだ、状況が違っている。
たとえば2000年に出版されて一世風靡したアントニオ・ネグリ(1933-)とマイケル・ハート(1960-)の『〈帝国〉 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(水嶋一憲・酒井隆史・浜邦彦・吉田俊実訳、以文社、2003)なんて本があるが、そこでは国際社会を、主権国家VS主権国家というパラレルな並立ではなく、多様なアクターが重層的に混ざり合ったグローバル・ネットワークのようなものとして描いている。一強的なヘゲモニーをもつ超大国アメリカ、国連やG7など国家間の連携、国際的な機関、さらには主権国家ではない多国籍企業など領域横断的なプレイヤーが登場してきて力を増し、ごった煮。この混合状態は国境線にとらわれるものではないし、どこかに全体を統括する司令塔があるわけでもない。まさにネットワークで、脱領域化&脱中心化しているという。ネグリ=ハートはこれをカッコ付きの〈帝国〉と命名した
とはいえ時代もまた流れるわけで、今度は2012年にさ、イアン・ブレマー『「Gゼロ」後の世界 主導国なき時代の勝者はだれか』(北沢格訳、日本経済新聞出版社、2012)なんて本がでてきて話題になった。「Gゼロ」というのは国際的リーダーの欠如を意味している。突出したアメリカ一強時代が過ぎ去った。それに代わって今度はG7やG20といった国家間の連帯がリーダーシップを発揮するのかというと、そうでもなかった、というわけで、もはや「Gゼロ」だと。
もちろんさらに10年が過ぎて、今日的状況はまた違ってきているが、いずれにせよ、対等な主権国家というプレイヤーだけが世界を覆いゲームするのが本来的な国際関係だと、そう思い込んでるとさ、プレイヤーおよびゲーム内容の変質、多国籍企業そのほか主権国家とは違う無視できないプレイヤーが他にもたくさんいるぞ、ってことを見落とす
だから3点セット定義というのはさ、実用的な面からみても、いよいよ再考してみる余地があるのかもしれない。ちなみに、未承認国家(非承認国家)ってわかる?
我聞〉 そのままズバリなんじゃないですか? 国際的に認められてない国ってことでしょ。
ミサ〉 そうだ。国家さんは誰を同じプレイヤーとみなすのか、ってのは詰まるところ、お互いがプレイヤーとして認め合うのかどうか、って話になってくるだろ。いくら3点セットを備えていようが、おまえとはゲームしたくない、って断られたらそれまでだ。みんなに拒まれたらゲームに参加できないし。
だから論者によってはさ、3点セットに加えて、④まさにTHE国家として、まわりの国々から承認されていること、を国家の要件に足す場合もある。国家としてみんなから承認された国家こそ国家だっつーのはトートロジーだが、実際、みんなが認めてくれない自称国家なんてさ、世間じゃ通用せん。
我聞〉 つまり承認されていない、自称国家、未承認国家があるわけですね?
ミサ〉 ありまくりだ。身近なところでいうと台湾もそうじゃないか。
我聞〉 台湾は国家でしょう。
ミサ〉 厳密には未承認国家だ。20ヶ国ちょっとが承認してる程度だ。
我聞〉 そうですか、知らんかった。
ミサ〉 マジか。他にも未承認国家はたくさんあるぞ。しかも台湾のように統治レベルが高くない、実効力をマトモに確立できてない国がたくさんあるぞ。そうだな・・・・・・コレを貸してやるから、読んでみろ。
岬美佐紀は後ろの棚から、廣瀬陽子『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス、2014)を抜くと、カウンターの上に置いた。
ちなみに、この時点では未だ「お冷」しかでていなかった。どんなバーだ・・・・・・
ミサ〉 「わしは国家じゃ」と宣言しても、まわりから承認されておらず、結果国際法も通じないという、このグレーゾーンな未承認国家は、それでもプレイヤーであるには違いない。しかも、そこでは往々にして暴力沙汰、紛争がともなってるからさ、到底無視できない世界的にも話題のプレイヤーだったりする。
そうなるともう、近代的な主権国家中心主義では国際関係を語れないし、無理があると思うぞ。未承認国家を国家になりきれてない子どもと決めつけることはできん。というのも、ときに未承認国家というピースはな、そのままのカタチでさ、すでに国際的なネットワークというパズルにしっくりはまってる、ユニットとして機能しちゃってる、って側面があるんだよ。
簡単に言うとだ、そこでは国際法的にグレーなことができるから、むしろ未承認国家を必要としている輩がいる。需要があるわけ。これを逆から言うとだ、需要に応えることで未承認国家はそのままの姿で己を維持していく
教科書的定義ではくくれないグレーな国家の活動を、国家じゃないからとシカトし続けることはできない。
我聞〉 つまり3点セット国家だけを眺めていては現代の国際社会を語れない、ってわけですね? 3点セットだけに縛られてると、逆にみえなくなるものがでてくる、と。多国籍企業とか、未承認国家とか・・・・・・まぁなんとなく言いたいことはわかりましたが、そういうところまで考えはじめたら、ん~、頭が混乱してきますね。
ミサ〉 定義することで、逆に頭でっかちとなり、定義に縛られてしまうところがあるし、頑張って定義してみても、必ずと言ってよいほど包摂しきれない余剰、グレーなところがでてきてしまうものさ。
我聞〉 まぁでも、そんなこと言ってたら定義なんて永久にムリですね。つーか、そもそも、そこまで厳密に考えなくてもいいんじゃないですか? たぶんキッチリとハマる定義とか正解なんてねぇ、ないんじゃないですか?
ミサ〉 ほぅ。イイところを突いてきたな。座布団を一枚、といきたいところだが、座布団ねぇからさ、椅子をクルクル回転させてやる・・・・・・つっても、カウンター越しじゃ手が届かねぇし。
我聞〉 回さなくて結構です。
(註)
7 講演会で語ったアントニオ・ネグリの言葉を引用し、補足説明しておきたい。
「〈帝国〉というのは、君主政体と貴族政体と民主政体が一体化したものなのです。あるいは、これら三つの政体を頂点として、それらの頂点をめぐって構成される力の構造なのです。〈帝国〉のヒエラルキー的構造化は、権力の三つのレヴェルを分節化しながら作動します。まず存在するのは、その軍事的、貨幣的、文化的力量によってヘゲモニーを要求する、アメリカ的、君主政体的なレヴェルです。これにたいして、矛盾をかかえながらも効果的に世界の生産の全空間を横断する貴族政体があります。巨大な資本主義的多国籍企業がそれです。これはもはやナショナルな色合いをまったく失ってしまった金融システムのうえに築かれています。そしてまた、巨大な国民国家の残滓がそれです。こちらは〈帝国〉内の政治的権力の中枢的な指令機関の再構造化に効果的に介入するための同盟を模索しています。」(引用文献:『アントニオ・ネグリ講演集 上 〈帝国〉とその彼方』上村忠男監訳、堤康徳・中村勝己訳、ちくま学芸文庫、2007:P31-32)
8 たとえば押村高さんもまた次のとおり指摘される。
「今日、多国籍企業、国際金融資本、INGOなどの非国家的アクターが国際関係に参入を始め、国際関係の変化を加速している。いまや、国際関係の主要なアクターが主権国家であるという解釈に現実的妥当性を見出すのは難しい。」(引用文献:前掲『国家のパラドクス』:P101)
9 廣瀬陽子さんは「帝国やパトロンにとって、未承認国家には多くの使い勝手のよい利益の源がある」と言い、それを「ダストボックス」「セキュリティボックス」と呼んでいる。「ダストボックス」とは、麻薬、兵器、人身売買など闇経済が未承認国家を必要としている、という側面を指す。「セキュリティボックス」とは、パトロン国にとって軍事施設を置くのが容易な未承認国家は国際戦略上、役に立つ、という側面を指す。また、未承認国家サイドからすると、闇経済から利益を得、軍事施設によって安全保障を得られることになる。ダークなウィン・ウィンである。(参考文献:『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス、2014:P235-240)
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