【真夜中のミサ】
その日、美川憲一さんの『柳ヶ瀬ブルース』で知ってる人は知っている岐阜の歓楽街・柳ヶ瀬の路地裏を、曇りなき満月に煌々と照らされた路地裏を、オレはスマホ片手に地図アプリを眺めつつ歩いていた。哲学バー『ツァラトゥストラ』を探していた。
世間はお盆休みド真ん中。人通りは少なく、わびしい。
もしかしたら休みかも、なんて思ってるうちに、前方の雑居ビル、その二階壁面にピンクのキラキラ電飾が痛々しいネオン看板『ツァラトゥストラ』を見つけた。
それにしても全体的にかなり老朽化したビルだった。確実に新耐震基準(昭和56年改正の建築基準法)適用前の物件だろうな、と思った。どーでもよいことだが。
オレは掃除が行き届いていない折れ階段を昇り、目標地点のドア前に立つと、無意識に「たのも~」って感じの会釈をしてしまった。
一息つき、きしむドアを、腹立つくらい建て付けの悪いドアを開けると、すぐ目の前に寝ぐせ頭の茶髪女がいる。カウンターに肩肘をつき、訝しげなガンを飛ばしてきた。「いらっしゃいませぇ~」の一言もない。こいつが、岬美佐紀だった。
「・・・・・・やってますか?」
やってなさそうな空気感がみなぎっていたので問うてみた。
「なにを?」
なにを? ・・・・・・想定外のトんでる返答だった。
「ココ、バーですよね?」
「バー?」
「え、違うんですか?」
室内は狭く暗く、ボックス席はなく、ただカウンターがあるだけ。それでも後ろの棚には「いいちこ」やら「ジョニ黒」やらなんやらと、焼酎、ウィスキー、日本酒、ワイン云々と多彩な銘柄が並んでいた。ちゃんと札付きのボトルキープもされている。ココは誰がどう見たって、バーだろう。
とはいえ、気になった点が二つ。ところどころボトルとボトルの間が空いており、そこにやたらと難しそうなタイトルを背表紙にもつ本がつっこまれていたのだ。酒棚兼本棚になっている。
それと、岬美佐紀の格好がラフすぎる、つーか、ふざけている。ジーパンに村上隆カイカイキキの花柄シャツ、その上にナイキのジャンパーを羽織っていた。こんなママは他にいないだろう。
「きみがステレオタイプにもバーだと認識するなら、勝手にそう思え。どう解釈しようと、それはきみの自由だ」
岬美佐紀は肩にかかる跳ねた寝ぐせを指でつまみ、めんどくさそうに言った。
つーか、ココがバーかどうかなんて、正直どーでもいい。
オレは着席するとすぐにヨウジ・ヤマモトのトートバッグから『死にいたる病』を取り出し、カウンターの上に置いた。
「岬美佐紀さん、ですよね?」
「だったらなんだ? きみはファンか? ちなみに我はミサミサ、ないしミサ二乗というあだ名があるが、ファンであるなら、そう呼ぶことを許可しよう」
それは・・・・・・遠慮することにした。
「五楼座ごろうざ悟朗さんを知ってますよね?」
「知らん」
「アフロヘアがトレードマークの、彼女イナイ歴43年。『世界最高の知性イマニュエル・カントが生涯童貞だったのだから、わしも生涯童貞を貫くのだッ!』とか言ってる人」
「思い出した」
「この本の内容が知りたいなら、あなたに教えてもらえばいいって、こちらを紹介してくれたんです」
「・・・・・・で、あるか」
岬美佐紀は(コミックでありがちな)織田信長の真似なのか知らんが、そう言うと、『死にいたる病』を手に取った。
奇怪な物体を観察するかのように目を細めて凝視する・・・・・・その化粧っ気のない横顔を、抑制された照度の下でも、オレはしっかりと確認することができた。フランスかどこか異国人とのハーフか、って思うくらい日本人離れしている端正な目鼻立ち。まぁ要するに岬美佐紀は美人である。これをベースにちゃんと化粧したら、さぞ・・・・・・なんて想像していると、
「キルケゴールか・・・・・・興味なし」
岬美佐紀は酒棚、いや本棚か? 『死にいたる病』をさっと収納してしまうのだった。つーか、それオレの本だしパクられた? って思った。
「あの・・・・・・」
「なんだ?」
「とりあえず返してもらっていいですか?」
「チャージ料として徴収する」
このバーは(バーじゃないかもしれないが)いったいどんなシステムなのだろう(それは今でもわからない)。
「きみはキルケゴールが好きなのか? そっち系か?」
岬美佐紀は射抜くように横目を向ける。それは彼女特有の仕草だった。
「好きかどうかは読んでないのでわかりません。つーか、読めないから教えてもらいに来たんです。さっき言いましたよね? それに、そっち系って、どういうことですか?」
「キリスト教系の人ってことさ」
「オレはクリスチャン違います」
「じゃなんでキルケゴールを持ってきた?」
「そこに、答えがあると思うんです」
「は? なんの?」
「・・・・・・オレ、彼女にフラれたんですよ」
「意味がわからない」
岬美佐紀は両手の平を上に向けると、ちらちらと振った。
「絶望してるんです、オレ。なんつーか、この世界に、この人生に、たぶん・・・・・・」
「お、たしかにキルケゴールっぽくなってきた」
「キルケゴールっぽいですか?」
「近づいてるな」
「じゃ教えてくださいよ。キルケゴールのこと」
「ヤだ」
え? オレは耳を疑った。後々思い知らされることになるんだが、岬美佐紀はいわゆるドSだった。
「つまり、きみは女にフラれて絶望している?」
「キッカケはまぁ、そういうことになりますね」
「逆から言うと、女がいたら幸せになれていた?」
「普通に幸せだったでしょうね」
「ちがーう!」
ドンと、岬美佐紀はいきなりグーパンの底でカウンターを殴った。
「恋人がいたってハッピーになれるとは限らないぞ。重要なのは、国家だろうが」
「国家? はい?」
「あれを見よ」
ピッと、岬美佐紀が指をさす・・・・・・ところへ視線を移すと、カウンターの端にミニ黒板が立っており、
〈本日のお品書き〉 国家とはなにか?
と汚いチョーク字で書いてある。
「今日は朝からずっと、国家について語り合いたいと思っていたのだ」
オレは頭の上に?マークを3つは浮かべた。
「それって、オレの話と関係あります?」
「ある」
岬美佐紀は断固言い切ると、ようやく、ホントにようやく、お冷を出してくれた。
「察するに、きみは無職だろう? カネないだろう?」
「まぁそうですけど・・・・・・それが?」
「顔にでている。貧相な面構えだからな」
「ヒドイ言い草だ」
オレはふんぞり返ったが、丸椅子には背もたれがなく、あわわと焦った。
「もし今が江戸時代だったら、きみにラブラブな奥様がいたとしてもだ、貧しいがゆえに年貢未納やらなんやらで、その愛しい人を身売りでもして手放すことになるだろうよ
なにが楽しいのかさっぱりわからんが、オレはすぐに反論した。
「そんなの暴論ですよ。知りませんて、国家なんて。オレはね、そのチンケな幸せでいいから欲しかったんですよ、ガチで、マジで!」
「ぽかタレ」
ぽかタレ?
岬美佐紀は両肘をカウンターにつき、手を組み親指の上に顎をのせて、そう言った。
「きみの絶望とは、その程度のものか? 小さいな、小さすぎるな。もっとデカイ話をしようじゃないか。言ったろ。我はな、今朝から誰かと国家の話がしたかったのだ。つまりはなんだぁ、哲学したかったのさ。デカイ話をしようぜ、国家の話だ。同じ絶望するならさ、デカイ国家に絶望したほうがマシだぞ」
「言ってることが支離滅裂でわかりませんが、まぁ要するに、オレのことなんてどーでもよくて、国家の話がしたいって、そーいうことですね?」
「わかってるじゃん」
岬美佐紀はカカカと笑った。
そしていささか、というか、かなり独りよがりな一方通行的講義がスタートするのだった。
時刻は午後九時過ぎ。オレは終電も終バスも気にする必要がなかった。千円払えば、悪友の加賀和尚がタクシーしてくれることになっていたからだ。
(註)
1 日本では長らく人身売買が法的に禁じられていなかった。人様を騙したりして連れ去り、売り払うことは昔から禁じられていたが、困窮などにより自身の妻子を売ってしまうことについては黙認されていた。江戸時代に入り、年季奉公人の仕組みが普及していくと、男子の身売りは減ったようだが、女子については横行しており、主に性風俗の世界へ流されていった。最終的に、人身売買が法的に全面禁止されるのは、なんと! 2005年のことである。(参考文献:下重清『〈身売り〉の日本史』吉川弘文館、2012)
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