国家とはなにか?

千夜一夜

いざ! お哲の道へ!

【プロローグ】 

 戦前のこと。京都学派と呼ばれる一線級の哲学集団があった。そのラスボス・西田幾多郎(1870-1945)は、自著に「哲学の動機は『驚き』ではなくして深い人生の悲哀でなければならない(1)と記している。


 わからなくもない、つーか、すげぇわかるよ、今なら・・・・・・


 雲母きららちゃんにフラれてからというのも、オレは日に日に哲学者たるべく覚醒しつつあったのだ。

 なるほどたしかに悲哀こそ、〈哲学魂テッコン〉を稼働させるエンジンなのだろう。


 愛とはなんだ? 愛とは? 

 最初にブチ当たった哲学的問いが、それだった。

「ごめん。今日は会えない。ていうか、もう二度と会わないつもり」とかいう問答無用のLINEメッセージ一つで、3年3ヶ月も育んできた愛を、「わたしハムスター飼いたーい」「それって子育ての予行演習かぁ?」「だねぇ、アハハ」とかノロケまくってた愛を、オレは失った。マジありえんし。

 と同時に、オレは不幸のデフレスパイラルを喰らっていく。その後の就職活動は百戦百敗、白旗掲揚、つーか、それ以前の問題として、そもそも学生生活を順風満帆に終えるには単位が不足してたし、とりにいく気力もロスしてたし、ゼミで唯一人、留年しちまった。

 卒業式の日は、ダチの後ろ姿を見送るのが歯がゆくて恥ずかしくて、外界を完全にシャットアウト、引き篭もったもんだ。涙交じりに大量ストックしていた日清カップ麺を食したが、あのときの味はいつもと違ってビミョーに苦かった。エビがのどにつまってむせた。ハッキリと覚えている。


 オレは雲母ちゃんのために働きたいと思っていた。雲母ちゃんと二人で暮らしていきたかった、のに・・・・・・雲母ちゃんの姿は、オレの隣から消えた。明日も明後日もその先もずっとずぅーっと死がふたりを分かつまで一緒にいてくれる、と思っていたのに・・・・・・

 だったらオレは誰のために働くのか? なんのために働くのか?

 それが哲学的問いの、二つ目になった。

 そしてすぐさま三つ目。雲母ちゃんを失った世界を、オレはこれまでと同じように生きられるのか? つーか、こんな人生なら、いらないんじゃないか? いったいなんのために生きていくのか? 生きてきたのか?


 居酒屋のバイトを辞めるとき、「完全に病んでるな。やるよ」と四十路のアフロヘア店長から(おそらく皮肉を込めて)もらった餞別が、19世紀のコペンハーゲンで哲学していたセーレン・キルケゴール(1813-55)著『死にいたる病』(桝田啓三郎訳、ちくま学芸文庫、1996)だった。

 『死に至る病』・・・・・・まさにオレじゃん、オレのことじゃんか、と直感した。

 速攻、築半世紀のアパートに帰って万年布団に寝そべり枕の上に顎をのせてページを繰ってみると・・・・・・


〔 人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである(2) 〕


 一瞬にしてオチた、寝オチした。


 翌朝、オレはアフロ店長に電話する。

「店長、おはようございます」「店長はやめろ。おまえはもう部下じゃない」「昨日もらった本の内容が知りたいんです」「内容? 読めよ」「最初の三行で挫折しました」「わしの周りでは最短記録だな」

 店長は名古屋大の大学院卒で、西洋哲学を長年かじっていた、らしい。「おまえポスド(3)ってわかる? マジきついよ、阿鼻叫喚」、つーことで、研究者レースからドロップ・アウト。しがない赤ちょうちんでバイトしていたところ、後期高齢者だったオーナーが突然の末期癌&余命半年となり、店舗を禅譲してもらった、という人生行路だった。

「店長、なんつーか、あの本にはね、今のオレにとって、とてもとーっても必要なことが書かれてあるような、そんな気がするんです」「だからあげたんだ。ていうか、くどいが、もう店長とは呼ぶな」「これって、哲学書ですよね?」「そうだ、ザ・哲学だ」「たぶん、今のオレを癒してくれるものはもう、哲学しかないと思うんです。この出会いは運命ですね、きっと」「運命? まぁそうだな、あの西田幾多郎も哲学は哀しみとともにはじまる、とか言ってたからな、失恋からの哲学という出会い方もアリだろうよ」「だからもったいぶらずに、なにが書いてあるか教えてくださいよ」「悪いが、わしはもう哲学から足を洗ってる。洗ってなかったら、おまえにあの本はあげてない」

 つれない返事がオレの鼓膜を打った。落胆させられた、が・・・・・・

「ん~、代わりといっちゃなんだが、我聞太一がもんたいち、おまえにイイ店を紹介してやる。この界隈じゃあ哲学バーって呼ばれてんだ。わしの院生時代のかわいい後輩、いや違った、かわいくない後輩がさ、雇われママをしてんだ。そいつに教えてもらえや」


 オレは腹の奥底から哲学に飢えていた。『死にいたる病』を手にした瞬間から哲学のことが頭から離れなくなっていた。そこに〈救い〉があると確信するようになっていた。その予期せぬ副作用で、幸か不幸か、たぶん幸福なことだろうと思いたいが、少しずつ雲母ちゃんのことを考える時間が減っていた。

 つまりオレは大失恋という大震災を経て、「哲学の道(お哲の道)」へ誘われていたのだ。


「それを哲縁っていうんだよ」

 さて、アフロ店長オススメの哲学バー『ツァラトゥストラ』で、オレは公称38歳/自称「永遠の19歳」ミサミサこと岬美佐紀と出会うことになる。

「仏縁じゃねぇぞ。哲縁だ」

 ミサミサは、そのように語った。




(註)


1 『西田幾多郎全集 第五巻』岩波書店、2002:P92


2 セーレン・キルケゴール『死にいたる病』桝田啓三郎訳、ちくま学芸文庫、1996:P27


3 大学院へ進学し、博士号を取得するほどの研究成果があったとしても(当たり前だが)ただちに大学教授など安定したポストにつけるわけではない。そこへ到達するまでの間、たとえば任期付きの研究員として雇われたりもする。それをポスドクと一般に称する。あくまで期間限定の有期雇用であり、将来が保証されているわけではない。往々にしてそこは「いばらの道」となる。アーメン。

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