6
兼和は大方の体力を消耗していた為、そこから先を語るのには気力を振り絞る必要があった。
「その者の村に伝わるという悪霊を祓う呪文を唱えると、一陣の風が起こりました。私の目には何も見えず……気付いたら終わっていたのでおじゃります。絵図の変化には気付きましたが悍ましい邪気は消え、その者が私を振り返り、こう申しました。終わりましたと──」
部屋の中は静まり返っていた。
「その者の名は? 」
暫くして信長が問うた。
「六助、と申す者におじゃりまする」
名がはっきりと口にされると同時に乱法師の目が大きく見開かれた。
───
直ちに六助が二条の邸に連れて来られた。
乱法師は不安で胸が締め付けられた。
何があったのか、化け物共が目の前から消え失せたのは六助の力に依るものなのか、早く知りたくて堪らなかった。
六助は中庭の砂利に蓙を敷いた上に座らされていた。
寝殿造りの御殿とも言える敷地の中央の建物の前の中庭である。
裁かれる罪人の面持ちで内心怯えながらも、六助は小屋に置いてきた子猿達の事を案じていた。
彼の周りには数名の下級侍が控えていたが、流石に縄までは打たれていない。
建物の立派さに圧倒され、庭や邸の豪華な装飾にきょろきょろと首と目を動かしているうちに、小姓が信長の入室を告げた。
砂利に立つ下級侍、縁側に控える少し格上の者達、皆が頭を下に擦り付けんばかりに平伏する。
呆然と口を開けて見ている六助に、「頭を下げい!」と怒声が飛び慌てて頭を下げた。
信長は天下人、六助は猿曳である。
本来ならば家臣が審問し、それを信長に伝えて裁決を仰ぐのが普通であろう。
ところが信長は回りくどい事を嫌う。
「貴様が六助か」
威厳に満ちた声が天から降って来たように感じた。
「……」
六助は答えなかった。
こんなにも身分の高い人間に直に答えて良いのか躊躇ったからだ。
「直答を許す! 」
「へえ…」
蚊が鳴くような声である。
平伏した儘の六助は、信長の側に不安そうな顔で控えている乱法師に全く気付いていない。
普通に考えれば六助に非は無く、寧ろ乱法師以上に称賛されるべき人物である。
問題は信長が呪いや怨霊の類いを一切信じないという事だ。
「六助とやら、貴様の口から納得出来る答えを得られると思い此処に呼び出した。兼和から屏風の祈祷を依頼されたというのは真か? 」
家臣任せにせず自ら全て質問するつもりでいる。
「へえ、何が何だか良う分かんねえけんど、兼和様が血相変えて屏風を持っていらした。それで祓うゆうか式神共を退治して屏風に戻したんや。邪気は弱まったけんど、まだその屏風は危ねえ。みてぐらくくりが済んでねえ」
「訳の分からん事を申すな!無礼者めが! 」
長谷川秀一が信長の顔色を窺い、きつい口調で叱り付ける。
「待て!みてぐらくくりとは何じゃ! 」
「藁で作った輪に御幣を立てて花べらゆう紙の中に米を投げ入れて悪いもんが集まるように祈るんや。儂が見た時、屏風は真っ白で、悪いもんが全部外に出ちまってたぜよ」
皆、狐に摘ままれたような顔をしている。
「つまり貴様は出た物を元に戻したという訳じゃな? 」
意外な事に信長は顎髭を撫で納得したように言った。
霊や呪いは信じないが、嘗て宣教師ルイス・フロイスが地球儀を献上し、それを見て地球が丸い事を理解した。
理解する事と、ただ知る事とは違う。
地球儀を生まれて初めて目にした戦国時代の人間が、異国の者の言葉を素直に受け入れるには、余程柔軟な理解力が求められるだろう。
信長には岩のような信念があるが頭が固い訳では無く、合理的だが結論に辿り着くのに直感に依るところも大きかった。
それに彼は己とは異なる考え方、生き方、身分の低い者の言葉にも良く耳を傾けた。
神を信じない癖に宣教師達を丁重に持て成し、神について話す事さえ好んだ。
信長は六助の言葉を直感で受け入れた。
「だが貴様は屏風から邪なる物が外に出ていくのを見てはいない。儂はこの屏風を安土でも側に置き度々眺めていたが何も感じず、日によって絵の趣きに違いがあると思う事はあったが、構図まで変わる事は無かった──屏風を六助に見せよ!」
縁側に侍していた家臣が屏風の絵の側を六助の方に向けた。
元より六助のした事なのだから驚く筈も無いし、本来の絵を彼はそもそも知らない。
信長は不思議な心持ちになった。
道理には叶っていないが、嘘は吐いていないと彼の鋭い直感が告げている。
己の前に引き据えられ、直に問われているのに怯えていない。
もし何らかの細工を屏風に施した贋作師であれば少しは動じるだろう。
「鬼や亡者の数や身体の向きが変わっておる。色も褪せ全く別物のようじゃ。それに関しては何と説明する! 」
ほんの少し、六助の身体が震えたように乱法師には見えた。
罪も無いのにこのような場所に座らされているのが哀れで仕方が無い。
六助は相変わらず乱法師が其処にいる事に気付いていなかった。
「屏風には怨みが沢山籠ってましたあ。昨晩何で出てきちまったのかは儂にも分かんねえや。ただ都の人達に悪さしたらおおごとやき、村に伝わる呪詛返しの法文を唱えて屏風に戻す事にしたんです。みてぐらっゆうのに本来は集めるがやけんど、屏風を上様が大事にされちゅーきと兼和様の仰せで屏風に戻すように努力したんです。ただ、そっくりその儘戻すのは無理やった。やけんど完全に戻ったとしても、その屏風は側に置いてはいけねえ。その屏風は──」
「無礼者!上様に対して何という口の利きようじゃ!賤しい奴め! 」
またもや長谷川秀一がしゃしゃり出て叱り飛ばした。
「申し訳、申し訳ござらん……」
蓙に頭を擦り付ける六助の姿に乱法師の胸が痛んだ。
成り行きを見守りながら一体いつ、どのような形で助け船を出すべきかと、膝の上で拳を握り締めるばかりの無力さが歯痒かった。
「貴様の申す事は筋が通っておる。ふん、邪な者共が何らかの理由で外に出たが、それを元に戻しただけ。なれど全てでは無い故、絵が変わってしまったと。確かに屏風の拵えは見覚えがあり、全く同じ物を用意し、異なる絵を描き貼り付け贋物を造るのは手間が掛り過ぎる」
お咎めは無さそうだと乱法師が安堵し掛けた時、言葉が更に続いた。
「だが屏風に描かれた化け物が外に抜け出たなど、それよりも荒唐無稽な話しじゃ。そういえば、この屏風を儂に預けた男は幻術が得意であったな。兼和の目を眩まし、この屏風に術を仕掛け、何かを企んでおるのは貴様では無いのか?それとも誰かの差し金か! 」
乱法師の顔がさっと青褪める。
「そんな、儂は──」
「上様、この者は一旦牢に入れ、きつく締め上げれば大それた企みを吐くやも知れませぬ」
「うむ。事がはっきりするまで野放しにする訳には行かぬ。引っ立てよ! 」
無慈悲な命が乱法師の胸に突き刺さった。
砂利に控えていた侍が、六助の両脇から腕を掴み無理矢理立たせようとする。
これから何処に連れていかれ何をされるのかと瞳が不安気に彷徨う。
「お待ち下さい。どうかお待ち下さいませ──」
腸が捩れんばかりの悲痛な叫びと共に、身体が勝手に動いた。
乱法師は信長の前に飛び出すと、畳に額を擦り付ける。
「乱──」
「乱、乱法師様……」
信長も六助も無論他の者達も、突然の展開に呆気に取られた。
六助は今まで乱法師がいる事さえ気付いていなかったし、他の者達は信長の側に控える秘蔵の美しい花としてしか彼を認識していなかった。
意外な人物の登場に一瞬息遣いさえ止み、場が静まり返る。
勢い良く飛び出したものの、正直、何の策も無かった。
「何故、そなたが六助を庇う」
張り詰めた糸が緩んだように、ゆったりと発せられた信長の声音には、少し好奇の色が混じっていた。
「その、些か私の知る者にございますれば……」
問われてみれば、六助とは都で一回会って僅かに言葉を交わしただけ。
彼の事を深く知る訳では無い。
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