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しかし屏風から鬼が出て手首を掴んだなんて信じる訳が無いと分かりきっている。
強く主張すればする程気でも狂ったかと怒りを買い、吉田神道の存在自体が危うくなるかも知れない。
『でも何で儂が責められなあかんのや。屏風の事かて絵を変えたのは儂やない。六助や!そうや六助や』
一瞬兼和の心に極めて狡い考えが浮かんだが、積極的に六助のせいにしようと企む程、性根は腐っていなかった。
明智光秀から親友である吉田兼和の所に持ち込まれたのだ。
明智光秀とは付き合い長く、兼和が光秀の坂本城に遊びに行ったり、光秀が兼和の邸の石風呂に入りに来たりと、かなり親しい間柄なのである。
非常に生真面目な光秀と緩やかで軽薄な所のある兼和は、意外にもウマが合った。
突き詰めれば明智光秀にも責任があり、更に遡れば果心を安土に連れて来た筒井順慶にまで辿り着く。
全ての責任を問えば多くの名が上がるが、極めてこの件に深く関わっている人物が、実はもう一人いる事を兼和は知らなかった。
ある意味、発端となってしまった人物の事を。
「上様が参られます」
小姓が現れ先触れをする。
部屋の中にいた三人は即座に居住まいを正し頭を下げて待つ。
いつものように足音も派手に豪快に入室すると、信長は上段にどっかりと腰を下ろし座る前から口を開いていた。
「兼和、昨夜は大変な騒ぎであったぞ」
「ははっ!上様には御無事で何よりでございます。大それた賊が早う見つかる事を心より願うておりまする」
「うむ!斯様な真似をすればどのような目に合うかをたっぷり思い知らせてやる! 」
「真に、真に……」
「斬首や磔では物足りぬ。六条河原で鋸引きじゃ!都を騒がせた罪は重い」
「ぅっ──は」
鋸引きとは地中に罪人を首から上だけを出す形で埋め、側に竹で出来た鋸を置いておき、通行人等に少しずつ自由に引かせるという残虐極まりない刑である。
元亀元年、岐阜城に帰還する信長を千草峠で狙撃した罪で杉谷善住坊が鋸引きにされた。
軽い口調で重い刑罰の話しをする信長の感覚に付いて行けず、恐ろしさで声が掠れる。
それにしても、普段から実年齢より十は若く見える信長だが、いつにも増して血色が良く肌艶も良い。
意識を失う程の体調不良に加え、昨晩殺されかけたというのが嘘のようだ。
『風呂上がりか……』
改めて信長の着衣を観察すると、夏なので単は当たり前だが、群青と栗色、紺の三色で肩や袂、裾等が色分けされ、そこに竹や流水の辻ケ花染めという、派手好きな信長にしては渋い色合いの小袖である。
袴も穿かずに胡座をかいている為、褌も脛も丸見えだった。
「それにしても神仏は上様の常に御味方でおられるのですやろなあ。この日の本には上様を害し奉る事が出来るような者はいてしまへん。勿論、神仏の御加護だけや無く、そちらのお二方のような優秀な方々が沢山周りを固めていらっしゃるからこそ、賊も尻尾を巻いて逃げ出したんですやろなぁ」
出来るだけ屏風から信長の意識を逸らしたい。
無駄な足掻きと分かっていても、そのうちに上手い言い訳を考え付くかも知れない。
そんな淡い期待を抱きつつ、得意の愛想笑いと大袈裟な追従で、その場にいる三人の機嫌を取り結んだつもりだった。
ところが信長は眉間に皺寄せ、長谷川は明らかに睨んでいるでは無いか。
思わず助けを求め万見に顔を向けると、うんざりしたように溜息を吐いていた。
何か失言をしただろうか。
一瞬頭が真っ白になってしまった。
「兼和! 」
まるで戦場で下知を飛ばすような威厳のある声が部屋中にびりびりと響いた。
「……はは…はぁ……」
部屋の中にいる万見、長谷川、兼和、佩刀を持ち背後に控える小姓二人まで身を固くする。
「こやつらは、すっかり慢心しておる。昨夜のような大事にこそ武士の真価が問われるというのにじゃ!日頃の鍛練は何の為じゃ。それを賊を逃がしたばかりか一太刀も褪せる事さえ無かったというのじゃから呆れて言葉も無いわ。皆、子飼いの奴等故もう少し骨があるかと思っていたがとんだ腑抜け揃い。暗闇の中、右往左往するばかりで何も出来なかった。賊の顔も正体すら突き止められず逃がした。それも一人も倒さずにじゃ!」
だんだん怒りで興奮してきたのか信長は立ち上がって歯軋りをした。
兼和は屏風から抜け出てきた鬼よりも、怒りに震える信長の方が遥かに怖いと思った。
「それは……」
内心で万見や長谷川の心情を理解したが、彼等の弁護をする訳にもいかず青褪め押し黙る。
ところが、突然信長の表情が和らいだ。
「だが、一人だけ身を挺して儂を守った者がおる!」
そう言った信長の顔からは怒りが消え、嬉しそうな表情に変わっていた。
呆れる程喜怒哀楽が激しい。
「乱を此処に呼べ! 」
即座に小姓に命じる。
暫く待つと、襖の外で声変わり前と覚しき少年の高い声が聞こえた。
「乱法師にございまする」
「入れ!」
襖がすっと開き、隙間から細い指が覗いた。
部屋の中に身を入れる所作が優美で品があると感心しながら、兼和はその少年を注視した。
桜色と裏葉柳の横縞模様に紺や蘇芳に銀糸で笹の葉や夏の花が刺繍され、散らした箔が目映い小袖に、袴は麻で腰から裾に掛けて段々と濃くなる鳶色。
透き通るような白い肌が少し上気し、桜色に染まっているのが愛らしい。
理知的で品のある顔立ちに、少し開いた唇がふっくらと熟した果実に似て、あどけなさと艶っぽさが同時に香るようだった。
落ち着いた雰囲気を漂わせているが、身体付きも頬の線も柔らかく、まだかなり年若いのであろうと推察した。
『まるで風呂上がりのような色っぽさや。ははあ……』
そこで兼和は合点がいった。
襖の前で手を付いた乱法師は項に
頬に前髪が掛り、細い首筋に淡い紅色の跡があるのを兼和は見逃さなかった。
そうした跡というものは、通常の行為では余程強く吸わねば、はっきりとは付かないものだ。
だが、湯殿でなら。
彼が入室してから見違えるように信長の機嫌が良くなり、目を細めながら言った。
「森乱法師じゃ。五月に小姓として召し抱えたばかりでのう。宇佐山城を守り討ち死にした三左衛門可成の三男じゃ。」
「森乱法師と申しまする。以後お見知りおき下さいませ」
涼やかな声音で名乗ると兼和に対して頭を下げる。
「昨夜、乱は一人で賊と戦い手傷を負わせたのじゃ。残念ながら賊は逃げたものの、儂が意識を取り戻したら、折れた太刀を握り締め側で気を失っておった。何と健気で勇敢な事か──」
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