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「ふむ、鬼のような大男か。表から入るとは良い度胸をしておる。肝心なのは、その後じゃ。平八は消えたと申していた」
「確かな手応えはあったのですが意外と素早く、暗闇の中を逃げたのやも知れませぬ。探す事も出来ず、上様の御寝所に戻りましたら、その──」
乱法師は賊が入ったという体で話しているが、無論それは本意では無い。
信長の考え方に合わせて語っているが、所謂人の仕業では無いと分かっている。
故に、ここから先は常軌を逸した場面続きで、どう伝えるべきかと口ごもったのだ。
「儂は情けない事に意識を失っておった。余程疲れていたのか、やけに頭痛と胸やけがしたのじゃ」
「はあ……」
これ程非日常的な騒動が起こっていながら、単なる疲労で済ませてしまう信長の日常的解釈に感心してしまう。
「正体を見極める為に再び表に向かう者と、上様の御側に残り警護する者とに分かれ、私は御寝所の入り口辺りに立っておりました。ところが──風も無いのに突然灯火が全て掻き消え、暗闇となってしまったのでございます」
「灯りを消す術か。忍びである可能性が高いな。それで、その後どうなったのじゃ! 」
「……」
風も無いのに、というところを強調した筈なのに、あくまでも人外の仕業と考えずに現実的な解釈に終始する信長に中々言葉が継げない。
「はっ!何やら怪しい人影が多数、人とは思えぬ不気味な気配に震え上がりました。必死に太刀を振り回し、数匹、いえ数人に手傷を負わせたようには感じました。ただ太刀が折れ、いよいよ駄目かと思って目を瞑りましたら、激しい突風が吹き荒れ、いつの間にか辺りが静かになったのでございます。その後力尽き、私が知るのは此処まででございます。申し訳ございませぬ」
真実を語りたいところだが、どうしても僅かに誤魔化すようになってしまうのはやむを得無かった。
「そうか、明かりが無くては賊の正体や人数も掴みにくい。だが今、儂の命を狙う者となると武田、上杉、毛利に本願寺、その他諸々の残党も含めると、どえりゃあ数になるのう。ははは! 」
「……」
他人事のように尾張訛りで爽やかに笑う信長だが、更にそこに蛇の化け物まで加わった事を知る乱法師は胃の辺りがきりきり痛んだ。
「探索は無論続けるが、お互い無事で良かった。目覚めて折れた太刀を握り締めた儘そなたが倒れているのを見た時には──」
そこまで言うと自分の膝の上に乱法師を抱き抱え、真剣な眼差しで彼を見詰める。
「胸が潰れるかと思った。昨夜感じた胸の痛みなど何程の事も無いという程にじゃ。気を失っているだけと分かり、どれだけ安堵した事か」
誰よりも強い主の少し切なげな表情につられ、乱法師の顔も悲しそうに歪み思わず睫毛を伏せる。
目を移した先に信長の喉仏があり、息をしたり唾を飲み込む際に動くと、その上を汗が伝い湯帷子の合わせ目に流れ落ちていく。
その汗の玉が陽光に煌めき美しいと感じた。
極めて近距離にいるからこそ見える物の微細な動きが、やけにゆっくりとして、まるで時が止まったように思えた。
再び顔を上げると信長の目と合った。
海のような深遠さを湛える瞳を縁取る睫毛も汗で艶めいている。
獲物を狙う鷹に似た眼光は和らぎ、思っていた以上に長い睫毛で、髭さえ蓄えていなければ女性のように優美であった。
今まで気付かなかった新たな信長を発見し、つい見惚れているうちに唇に温かいものが触れた。
優しさと荒々しさを同時に併せ持つ愛撫は、彼の身を熱く火照らせた。
徐々に沸き起こる未熟な欲情と仄かな恋情は、信長の昂りに凌駕されていく。
逃げ出したい衝動に駆られるのは、衣を脱がされ痴態を晒す事に対してでは無く、己自身が一切消えて無くなる事への恐怖によるものと、どこかで分かっていた。
触れられる度に甘い吐息が洩れ、足の爪先から髪の毛一筋に至るまで己のものでは無くなり、全てを相手に委ね支配されてしまうのが怖い。
絶頂とは生きながら死ぬ事と、本能的に悟っていたからなのかもしれない。
信長の事が嫌いでは無いと、それだけははっきり言える。
しかし、その淡い恋心は付け入る隙でもあるのだ。
彼を一匹の獲物と見るならば、毎回喰われずに済んでいるのは信長自身に考えがあるからというだけに過ぎない。
最早喘ぎ声しか出せなくなっていた。
そんな彼の様子に頃合いと判断したのか、信長は優しく簀の上に押し倒した。
腰紐に手を掛け引くと、しゅるりと微かな衣擦れの音が湯殿に響く。
「ぅう…お許し……下さいませ……」
折角甘い雰囲気になり、乗り気になっていた信長は残念そうに溜め息を吐く。
初夜に強引に愛で過ぎたのを失敗と反省して以来、慎重に距離を縮めてきたつもりだった。
取り敢えず身を起こさせ、頭を優しく撫でる。
「申し訳ございませぬ……」
漠然と悪い事をしてしまったと感じ、乱法師は謝罪の言葉を口にした。
未だに熟しきれていないと分かり、信長はそちらの成熟を早めるには一体どのような手段が適しているのかと、乱法師の頭を優しく撫でながら、邪な考えを巡らせ始めた。
──
二条の邸を訪れた吉田兼和は先程から、ひっきりなしに流れる汗を拭っていた。
暑くて堪らないという体で、実は動揺を誤魔化す為にしきりに扇で扇いでいる。
それにしても、この二条の邸は公武合体建築と表現すれば良いのだろうか。
公家風の寝殿造り程雅やかで優美では無いが、武家風の書院造り程実用的で武骨でも無い。
此処から見える庭は改築された中で最も手を加えられておらず、元の風情を色濃く残していた。
公家の享楽を象徴する釣殿も、その儘である。
池の上に競り出すように造られた釣殿は、その名の通り釣り糸を垂れたり酒宴を楽しむ為に、障子や壁等の仕切りが一切無く、寝殿を中央にして対屋から続く形で東西に設けられている。
兼和の前には今、信長の近習、万見重元が座し、戻された屏風から緋色の布を取り除いた。
「これは! 」
万見は屏風を目にした途端、眉を顰め絶句した。
年は二十代後半にはなる筈だが、その容貌は威圧的な印象を与えるものでは無い。
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