第7章 紐帯

 得も言われぬ薫香に、彼の鼻がぴくりと動いた。

 軽く吸い、余りの芳しさに今度は鼻腔に留めるべく強く吸い込んだ。

 額に温もりを感じ、次にその温もりは頬を包み込んだ。


 目覚めると夜具の上にあり、矛盾した事にまだ夢の中なのだと思った。


「うえさま……」


 それは、彼の顔のすぐ近く上に信長の顔があったからだ。


「乱──」


 その声はひどく優しく甘やかで、彼を見つめる瞳は菩薩そのものだった。


 芳しい薫りに信長の顔をした菩薩。

 此処は恐らく極楽浄土に違いない。


 彼はそう確信し、蕩けるような眼差しで信長の顔をした菩薩を見つめ返す。

 すると菩薩の顔は益々慈愛に満ち溢れ、彼の顔に重ならんばかりに近付いてきた。


「こっこほ……こほ」


 天人達も咳払いをするのかと其方を見遣ると、見覚えのある老人が座っていた。


「……」


 京都所司代の村井貞勝に良く似ている。

 そう思いながら、ぼんやり視野を広げると、他にも見知った顔が数人壁際に控えていて、漸く極楽では無く此処は地上であると悟った。


「申し訳ございませぬ! 」


 乱法師は夜具の上でばったの如く跳ねると、慌てて手を付いて頭を下げた。


「何を謝る。そなたが謝る事など何一つ無い。目覚めるのを待っていた。礼を申したくてのう」


「礼? 」


 状況が掴めず首を傾げる乱法師を抱き寄せ、頬に掛かる髪をそっと掻き上げてやりながら愛しげに目を細める。


「ぐ、ごっほーごほっっ」


 今度は長谷川秀一が激しく咳き込んだ。


「全員、下がれ! 」


 周りに人がいるのを煩わしく感じ始めた信長が命じると、皆そそくさと無言で退出していく。


「疲れたであろう。まだ年端のいかぬそなたが一人で奮闘し敵を退けたのじゃからな。真に見事であった」


「私は……上様に大事はございませぬか?あの時、苦しそうな御様子でおられましたが御身体はもう大丈夫なのですか? 」


「見ての通り何とも無い」


 信長と会話するうち、徐々に記憶が戻っていく。

 腕に抱かれた儘部屋を見回すと、銅製の蛙形の香炉に目が止まった。


「あっ!此処は」


 信長愛用の三足の蛙の香炉から燻る煙は伽羅の香であろう。

 信長の寝所に寝かされていた事を知り、恐縮する彼に信長は言った。


「鳴かなかったな」


「え? 」


「その蛙じゃ! 」


 面白そうに蛙の形をした香炉の方に顎をしゃくる。

 唐物の銅製の香炉は信長愛用の品で、三つ足の蛙は中国では青蛙神せいあじんという霊獣で天災を予知すると云われていた。


 因みに、本能寺の変の前夜に鳴いたという逸話がある。

 そんな大層な蛙の顔は驚く程愛嬌があり、

果心が蛇だから鳴かなかったのだろうかと

乱法師は思った。


 そういえば、化け物達が何者かによって多分倒されたところまでは覚えているが、その後結局どうなったのだろう。

 果心の仕業である事は間違いない為、吉田兼和に祈祷を依頼した屏風の事も気に掛かる。

 それと六助の事も。


 六助の声がしたのは空耳ではなく、貰ったひなごが彼と信長を守ってくれたとしか考えられない。

 三郎の話しだと六助は呪術師ではないという事だったが、吉田兼和があれだけの魔を一気に祓う力を有しているとは思えなかった。


「乱、何が起きたのか詳しく聞きたい。全く腑甲斐無い奴等ばかりで訳が分からん。化け物だの鬼が襲ってきたというのもいれば、賊?では無いでしょうかと全くあやふやでのう。そいつらはどうなったのじゃと聞いても答えられる者が誰一人おらぬ有り様じゃ」


 それを聞き他の家臣達に同情した。

 超常現象に対して懐疑的な信長に昨夜の出来事を説明するのは至難の技だ。

 それに化け物を目にしていない者達は、同時に賊の姿さえ見ていないのだから。


「団平八がのう。そなたが鬼、いや、鬼などおる訳が無いが、鬼のような大男という意味であろうな。皆が退こうとする中、一人そなただけが儂を守る為に立ち向かって行ったのじゃと申しておった」


 少し違うが全く嘘でも無い。


「無我夢中で良く覚えていないのでございます。ただ、御無事で良かった。ただ、それだけにございます」


 これは全くの本心であり、乱法師の瞳は涙で濡れていた。


「そうか、覚えておらぬのも無理は無い。そなたの気迫に恐れを為し逃げたのであろう。賊の骸が見つからぬのじゃ。血や腸の痕跡は残っておったが──いずれにせよ、そなたの働きで儂は助かった」


 胸に乱法師の顔を押し付け強く抱き締めた。


「今は何刻頃でございましょうか」


 化け物騒動が起きたのは皆が寝付く前の時分であったから、人定(22時頃)より前、宵の五つ刻(20時)を過ぎた辺りと思っていた。

 騒動の終息まで一刻(二時間)くらいは掛かったと思われるので、意識を失ったのが人定頃か。


「朝五つ(8時)は過ぎたやもしれぬ」


 そう、彼が時刻を気にしたのは、部屋の中が薄暗かったからだ。

 なのに、もうすっかり夜が明けているという。

 雨が降っているのか。


「そのような時刻になるのですね。申し訳ございませぬ。上様の御寝所で家臣の身でありながら寝過ごすとは」


「良く休めたようではあるな。大立ち回りをした故、汗の匂いがする。共に風呂に入ろう。そこで昨夜そなたが目にした事を聞きた」


 何のかんのと理由を付けて、随分甘やかされている気がしたが、忙しい信長とゆっくり話すには湯殿が一番なのかもしれない。

 支度が調い、湯殿に向かおうと襖を開き廊下に出ると、板戸の絵が目に入った。


 花鳥風月、山水図、松の絵などのありきたりな構図ではなく、竹林と老人が数人描かれていて、中国の故事の場面を表したものであろうが何であったか思い出せない。


 その絵を見ながら廊下を歩くうちに、板戸が閉められている為、寝所に陽光が差し込まなかった事に気付いた。

 自分を気遣い信長が開けずに置いたのではと思うと、甘酸っぱい気持ちが胸に込み上げ頬が桜色に染まる。


 湯殿に着くと脱衣場で湯帷子に着替え、蒸し風呂の簀に腰掛け共に庭を眺める。

 昨日の恐ろしい光景が嘘のような晴天で、昼間から入る風呂の贅沢さと庭園の美しさに心身共に癒されていく。


「何があったのじゃ。京都所司代に探させているが何者の仕業なのか。未だに賊を一人も捕らえる事が出来ておらぬ。故に見た儘を申せ」


「表が騒がしいので見て参れとの指示で向かいましたら、叫び声が聞こえて参ったのでございます。燭台の火が消え、辺りは真っ暗闇になってしまいました。表玄関に急ぐと、中間と思われる者が棒で滅多打ちにされておりました。月明かりのみが頼りにて良くは見えなかったのですが、身の丈が六尺は優に越える大男。はい、まるで鬼のような形相、面容であったと記憶しております」




 




 





















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