六助の目には異形の山の神達の姿が映っているのだろうか。

 召喚し終えたとみるや、次はさわら敷の法文を声高に唱える。


「東東方山の神大大神の宮社の内さわらの敷───開けたまなこはふさかせん あげた足は下ろさせん 踏んだ爪は抜かせんぞゥ即滅そばかぁ」


 髪や着物が風ではためき乱れる。

 小屋中をぐるぐる渦巻いていた風が、一気に上に向かって吹き上がったように見えた。


──


「早く医師を呼べ!」


 小姓達が呻く信長を支え甲斐甲斐しく汗を拭う。

 信長の額には細かい汗の粒が吹き出し、頭痛と胸の痛みのせいか顔色が悪い。


 常に頑健で病むという事が似つかわしくない主の突然の急変に、側近達の顔にも不安の色が滲んでいた。


 乱法師は信長の身を案じながらも、表が騒がしいので見て参れと命じられ、数名の小姓や馬廻り衆と共に警護の侍達の詰所に向かっていた。

 表玄関に近付くにつれ、悲鳴のような声まで聞こえ、思わず腰の太刀に手をかける。


「一体何者じゃ! 」


 共に行動していた馬廻り衆の団平八が誰何するが、それに対する応えは悲鳴とざわめきだけである。

 その場にいた十名程の小姓や馬廻り衆は、とうとう全員太刀を抜いた。


『槍を持ってくれば良かった! 』


 只事では無い。

 邸内の警護の者は百名以上はおり、中間衆も含めれば数は揃っている。

 信長の命を狙う輩ならば、表玄関から入って討ち果たそうとするなど無謀過ぎる。


 下級武士達の喧嘩としか思わなかったのだ。

 何が起きているのか。

 一同緊迫した面持ちで、燭台の灯りで照らしながら声のする方に移動する。

 数名の者が持つ燭台の揺れる炎のみでは一度に照らす範囲は限られ、室内は常に暗闇の方が多い。


 異臭がした。


「うげげぇげぇへぇぎゅぅっう」


 人の叫びなのか得体の知れぬ獣の呻き声なのか。


 生臭い匂いに鼻を摘みたくなった。

 乱法師も良く知る匂い。

 

 死臭だ──


 正確に言うなら血や臓物、尿や糞便、汗。

 戦意を削ぐおぞましい気配。


 そこに煙、焦げ臭い臭いが混じり、乱法師ははっと身を固くした。

 その匂いが何かが分かると同時に項の毛がぞわりと立った。

 手にしていた燭台の炎が掻き消えたのだ。


 それも一瞬で全てである。


「うっああ」


「落ち着け!動じるでない!上様の元へ馳せ戻り、邸から一刻も早く御逃げになられるよう伝えるのじゃ!」


 ただならぬ殺気と闇に動じる年少の小姓を、戦慣れした年嵩の馬廻り衆が叱咤する。

 その場から、ばたばたと走り去る数名の足音が聞こえた。


 真っ暗闇とは言え、表座敷から此処まで真っ直ぐの廊下を歩いて来ただけなのだから無事に戻れる筈だ。 

 動じる余り闇の中で太刀を振り回されては堪らないし、敵の人数も正体も把握出来ぬ現状、信長には早めに退いて貰った方が良い。


「残った者は名を名乗れ! 」


 「又一郎」「虎松じゃ! 」「甚助」「平八」「又九郎」「新八」「乱法師! 」


「乱!そちは上様の元へ行け! 」


 点呼に答えると、小姓衆の中でも最も年少の部類の彼を足手まといと判断したのか、即座に退却を促す。


 勝ち気な乱法師が反論しようと口を開きかけた時、耳をつんざく絶叫に一同闇に目を凝らす。

 見回りの侍達の松明さえ消えた暗い屋外。

 雲の切れ間から覗いた月が、信じ難い光景を照らし出した。


 まるで古の物語絵巻を見ているようだった。

 筋骨隆々と身の丈八尺くらいはあろうかという青鬼が、巨大な金棒を中間と覚しき男に何度も振り下ろしていた。

 男が弱々しく手を伸ばし何とか防ごうとするが、容赦の無い攻撃は止む事無く続き、やがて絶命したのが見て取れた。


 脳漿や臓物、血飛沫が散る凄惨な光景が、闇夜のおかげではっきり見えないのが幸いだった。


「ゥぐ……」


 こんな場面に遭遇して平気な者がいたとしたら、肝が座っているどころでは無く肝自体が無いのだろう。

 さしもの信長親衛隊の強者共も、血の気が引いて顔色が紙のように白くなった。


 とはいえ、無論闇で見えなかったのだが──


「これは──」


「くっっ……どうする」


 方々から悲鳴が聞こえてくるのは、恐らく逃げ回っているからだろう。

 仮に勇敢に立ち向かっていたとしても、先程のような一方的な虐殺の地獄絵図が繰り返されるだけだ。


「上様の御容態も心配じゃ。一刻も早く退いた方が良い!大勢に囲まれている様子は今のところ無い、化け物がいるのは表玄関だけじゃ! 」


 如何に優れた武術の心得があっても通用する相手とは思えなかった。


「うむ、幸い力ばかりで知恵がありそうには見えぬし此処に来た理由も分からぬ。上様の御命が狙いなのかすら……無理に立ち向かっても犬死にするだけ。一先ず退却しよう!」


 この選択は色々な意味で実は正しかった。

 

 もともとは人や獣の霊が、果心の幻術と呪いによって具現化しているだけの事。

 式神となった時点で、意思を操られる傀儡と化していた。


 それ等が狙う相手は信長と刃向かう者達だけ。

 こちらから何も仕掛けなければ戸や窓のように擦り抜けて行く。


 退いた方が良いのは乱法師にも分かっていた。

 だが刀を抜いた途端恐怖よりも、源頼朝と祖を同じくする清和源氏としての古い武門の血が勝った。

 いや、ひょっとするとそれは単に、傍若無人な兄、武蔵守長可の弟としての血が騒いだだけだったのかも知れない。


「太刀を一度抜いて敵に背を向けるのか!!一太刀も浴びせず逃げるなんぞ──ぅっごおぅっめんじゃああーー」


 乱法師は雄叫びを上げると、野生の本能赴く儘に青鬼目掛けて突っ込んで行った。


「無茶だ!乱!止めよーー」


 無謀だった。

 余りにも無謀過ぎた。

 人の制止に耳を貸さない血の気の多さはやはり長可譲りなのかと、その場にいた誰もが呆気に取られた。


 八尺以上はあろうかという巨大な鬼。

 だが恐れる事は無い。


 乱法師の身丈は5尺二寸(156cm)程しか無いが、鬼のぎょろりと光る黄色い目玉は全く別の方向を向いていたのだから。


『確かに頭は悪そうじゃな。というよりも意思を持たぬかのようじゃ。動作も鈍そうだし。あの太い腕に捕まったら一貫の終わりじゃが、足を狙うか下から突き上げれば傷を負わせる事は出来よう』


 確かに理屈ではそうなのだが、酒天童子のような大鬼が突然現れたら、敢えて向かって行く気に普通はならないものだ。

 良く考えれば人では無いのだから、太刀で皮膚を貫けるかさえ定かではない。

 乱法師は単純明快で、あまり理詰めで考えない為、そんな細かい事は取り敢えず気にせず、身体が勝手に動いてしまうのが長所でもあった。


 槍や薙刀ならば間合いが長く、体格差や力の差も補ってくれるが、太刀では近付かなければ致命傷は負わせられないだろう。

 かすり傷程度を負わせて却って逆上させたら、重い金棒の強烈な一打であの世行きだ。


 と、そんな事を考え終わる前に鬼の足元にいた。

 太刀で素早く巨大なすねに斬り付ける。


 


 




 

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