三角炉に混沌供を捧げ、蘇油を大と小の杓で1度ずつ、次に房華を投入すると火の粉が闇に舞った。

 不動護摩の終わりの鐘が静寂の中に涼やかに響く。


 夏虫達は今宵はやけに大人しい。


「ふう、やれ終わったか。明日も行うつもりやったが、その必要も無さそうや。いや、待て!いっそ近習二人の前で加持祈祷をして見せたら如何にも仰々しおして、儂の力に恐れ入るに違いあらへん。上様のお耳にも入って益々吉田神社の繁栄間違い無しや!うっふっふっ」


 がたっと音がした。


 見ると立て広げていた屏風が絵の面を下にして倒れている。


 邪気を祓えたは良いが、肝心の屏風絵に傷でも付けたらあの信長の事、己の首が飛んでしまうと青褪め、慌てて屏風に手を掛けた。


「ん?ひっ!」


 青い手が兼和の手首を掴んでいた。


 兼和の手よりも遥かに大きく、長い鉤爪にごつごつと節くれだった指、そして何よりも恐ろしいのは、腕から先だけが、ぬうっと屏風から突き出ていた事だ。


「かっかあーーひゃ──あっああーーあひぃィィ」


 怨霊調伏を依頼された神主にしては情けないが、咄嗟に独鈷剣を構えたのは流石である。


 別名プルパ。

 魔障を祓う力を持つ霊剣と伝わる。

 結界をも張る強力な法具の筈なのだが。


 兼和の手首を掴んだ異形の腕には全く効かず、屏風から伸びたもう片方の腕がプルパを豆のように弾き飛ばした。


「うっあぁ……」


 くるくると弧を描き、プルパは無情にも遠く離れた地面に突き刺さった。

 如何に強力な武器でも使う者に力無くば意味が無いらしい。

 唯一の武器を失い成す術無く、がたがた震え涙ぐみ鼻水が垂れる。


 異形の腕は既に手首から離れているというのに、その場から逃げ出す事も出来ない。


 長い爪の生えた毛むくじゃらの脚、肩、角が屏風から突き出し、地獄絵図その儘の悪鬼がとうとう全身を現した。

 巨大な青鬼、しかもそれだけでは無く、描かれた魑魅魍魎、亡者までもが次々と屏風から抜け出てきたのだから堪らない。


 失神こそしなかったものの股の辺りが生暖かく、どうやら失禁してしまったようだ。


 血と臓物に髪の毛や皮膚までがこびり付いた金棒を手にした凶悪な青鬼、赤鬼に、百足、蛇、蝙蝠、蛙、狐、一体何を模した物か分からぬ不気味な魑魅魍魎共。


 がりがりに痩せこけ、肋骨が浮き出た薄い身体の餓鬼。

 怨みがましい目付きに灰色の肌の亡者達。


 尿臭を放ちながら腰を抜かす兼和には目もくれず、ぎょろぎょろと目玉と首を動かしながら側をぞろぞろ通り過ぎて行く。


 呆然自失としている間に化け物共は消え、護摩壇の炉に燻る火と石灯籠の灯りのみの静かな境内に、やがて夏虫達の声が戻り、梟が鳴いた。


 ホーホーホー


 本人にとっては長く感じた僅かな刻が過ぎ、梟の声で我に返り真っ先に気にしたのは屏風であった。


「がっ!何やこりゃあ。消えておる……綺麗さっぱり……たったっ大変じゃあーー」


 飛び付いて手に取って見ると、地獄絵図は消えていた。

 まさかのまっさらの真っ白だった。


 当に手に負えない事態が起きてしまったのだ。

 よろよろと立ち上がり、縺れる足で転げるように走った。

 屏風絵から化け物達が抜け出てきたのだ。

 常人ならば怯えるのは当然の事。


 しかし走り出した兼和の心を支配していたのは呆れる事に『どないしょお。どないしょお……絵ぇ消えてしもうたぁ。上様に怒られてしまう』という現の恐怖であった。


───


「ああ、酔った酔った。これから、どこ行くよ」


「お!旨い酒の後は女に決まってるやろ。四条辺りの小店にええのがおる。それにしても今宵は風がえらい吹くねえ」


「全くや。さっきからびゅうびゅう前から───あっなっ、何や、ぎぎゃーー」


 酒に微酔い、夜の都通りをそぞろ歩きする京の町民達の目にとんでもない光景が飛び込んできた。


 鬼、鬼、餓鬼、化け物、亡者の群れがわさわさと走るように飛ぶように、こちらに向かって来るではないか。

 二人の男達は抱き合い震え、呆けた儘その場にへたり込んだ。

 悪夢としか思えぬが酷く生々しい肉感を持つ化け物の群れは、二人が空気か何かのように避けもせず擦り抜けて行く。


 いや、二人が空気なのではなく化け物の方が実体が無いだけなのか。


「ありゃ、何じゃ、見たか? 」


「夢やろ。うん……酒に酔って何か変なもん見えただけや」


 こうした会話がひょっとして、今宵は都の至るところで交わされていたのかも知れない。

 それにしても恐ろしい化け物達は屏風から抜け出して何処に向かおうというのか。


 何者かに操られているのか、無辜の民には目もくれないのが、せめてもの救いであった。


───


 懐から布の包みを取り出す。

 六助から貰った『十二のひなご』という御幣だ。


 ホーホーホー


 やけに梟の鳴き声がするが、意外と森が多い都では珍しくないのかもしれないと思った。

 彼は二条の新邸の中央に位置する御殿の表座敷で、信長の護衛として数十名の小姓達と共にあった。

 二条邸は二条通りでは無く、烏丸通りと押小路通りが交差した辺りに建っていたのだと云う。


 元は関白二条晴良の邸であったから、そう名付けられたに過ぎない。

 公家風の寝殿造りの趣きを残しながら改築され、武家の書院造りとしての機能性も持ち合わせている。


 表座敷は信長の寝所の手前に位置する部屋だ。

 虫の多い時期なので蚊帳が吊られ、世話役としての不寝番は決まっている為、この部屋の小姓達は雑魚寝をしながら交代での警護となる。

 刀や槍が近くに備え付けられ、怪しい者が入り込めば何時でも戦える態勢だ。


 他の小姓達の世間話には加わらず、乱法師は蚊帳の中で一人そっと御幣を撫でてみた。

 和紙の手触り、切り抜いて作られた目と口を持つひなごの顔は幼子に似て愛らしく、玩具のような温もりを感じた。


 手を繋いだ三人の子供。

 ふと故郷の金山で暮らす二人の年子の弟、坊丸と力丸の顔が浮かんだ。

 兄弟は他に五つ年の離れた末弟の仙千代。

 上には姉が三人、金山城主の長可、討ち死にした長兄の可隆がいた。

 その中でも年子の三人、乱法師と坊丸と力丸は同じ時期に学び遊び、遠慮無く喧嘩もしてきた。


 本当に何をするにも一緒だったから、安土で全く異なる経験を積み、自分だけが容姿も心の有り様もすっかり変わってしまったのではないかという内側の距離に対して不安になった。


 弟達との思い出に浸りながら御幣を布に包み直し懐にしまおうとしたその時、外が少し騒がしいと感じた。


───


 信長は珍しく目が冴えていた。

 褥の上で、ごろりと寝返りを打つ。 

 鍛え上げた身体は疲労に対しては若者のように素直で、日頃は寝付き良く、目覚めもすこぶる良い。


『誰かに伽を──』


 娯楽の少ない時代の夜の事。

 寝付けぬ時には分かりやすく酒か女となるのだ。 

 望めば美女でも美童でも即座に目の前に並ぶだろう。













 









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