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兼和は躊躇せず緋布を取り除いた。
「うむう、凄い迫力や。確かに……凄い事は凄い!そやけど儂も神に仕える身、霊力は並の者より強うございます。儂の目には、この屏風、到って普通にしか見えまへんが──」
「我等が嘘を吐いていると申すか? 」
側近衆の中では自尊心が最も強く、やや癖のある長谷川秀一が不快気に鼻息を荒くした。
「お竹、失礼であるぞ。我等の手には負えぬ故、兼和殿に御願いしておるのじゃ。言葉を慎め」
長谷川を嗜める言葉は至極全うに思えるが、実は万見には余り霊感というものが無い。
それに対して長谷川はかなり霊的な事象に鋭敏な方である。
故に胡散臭いとまでは言わぬまでも、内心『こいつに任せて大丈夫なのか? 』という気持ちを払拭出来ないでいた。
それに、こんな俗臭のする神主に依頼するくらいなら、屏風なぞ燃やしてしまえば済むのにというのが更なる本音だった。
「この屏風を上様がお手元に置かれるようになってから、芳しくない事象が起こっているのは確かでござる。兼和殿は諸国の神社を統べられる御方。その御力を見込んで是非、邪気を祓って頂きたいのでござる」
権力の甘い匂いに群がる蜂のような兼和が、こんな美味しい話しに応じぬ訳が無かった。
「承知致しました。何日かこの屏風預からせて頂きます。儂に任せとぉくれやす。ほな初回の祈祷は万見殿と長谷川殿の前で行うさかい、暫し待っとぉくれやすませ」
暫くして準備が整うと、神主らしく
棒読みでのんびりした大和言葉を聞いているうちに、万見ですら効果があるのか不安になってきた。
屏風からは禍禍しさは失せ、確かに今はただの絵にしか見えない。
「さ、これで取り敢えず祓えましたさかい、次は玉串をお供えして終わりでおじゃります」
榊の枝に
『病気でも憑物でも、やり方が変わらんのではないのか?この狸爺が──効果が無くば、ただでは置かぬぞ! 』
長谷川は心の内で物騒な事を考えていた。
しかし一時的であっても、長谷川にとっては厄介払い、万見には他に当ては無く、伝統と格式だけはある吉田神道の神主に押し付けたのだから一安心と、御所の東の方角一里程の距離にある吉田神社を後にしたのだった。
それにしても己の能力を誰よりも弁えている兼和は、二人が去った後思案した。
信長自身からの強い依頼でないのがせめてもの救いだが、祈祷して何の効果も無かったらどう取り繕うべきか。
詐欺紛いの祈祷とばれて怒らせたら、吉田神道の名は地に落ちるだろう。
原因不明の病気や戦勝祈願は、効果が無くとも適当に誤魔化せるし、兼和本人にとっても己の祈祷が効いたのか良く分かっていない。
呪い怨霊、憑物の類いは祈祷師としての実力が明確に出てしまう領域だ。
「引き受けるべきでは無かったやろうか」
明智光秀の話しでは、信長所有の屏風に細やかな邪気を感じる為、祈祷して欲しいという程度の依頼だった。
「こうして見ても、細やかどころか邪気の邪の字も感じへんがなあ」
深刻な顔をした二人の近習の顔を思い出す。
「数日間、加持祈祷してなんも起こらな儲けもんや。そやけど何か起こったらどないしよう。手に負えへんかったら? 」
兼和は顎の下に手を当て暫し考えてから手をぽんと打った。
「そうした事が得意な奴に任せてしまえばええやないか」
流石、
吉田神道の流れをくむ、呪術に長けた流派が兼和の頭に真っ先に浮かんだ。
───
「湯殿の支度が整いましてございます」
小姓が手を付いて信長に告げた。
「乱、参れ」
此処で呼ばれるとは全く予想していなかったので少し動揺した。
手を付いた小姓が湯殿での世話を担当する筈だったのだが、御指名ではやむを得ない。
黙って後に従う。
脱衣場で湯帷子に着替えていると、「乱、そなたも入って参れ」と中から声が掛かる。
右大臣という高位官職の天下人と共に汗を流すなど畏れ多いと固辞したいところだが、困った事に信長は過剰な遠慮に眉を顰める傾向があった。
勿論、時と場合によるのだが、砕けた態度で誘う様子から、遠慮を求めていない場面であると判断した。
何も言わずに白い湯帷子姿で楚々と信長の前の簀に座す。
思わず大きく目を見開いた。
この時代は蒸し風呂が基本であったが、風呂事態が大変贅沢で、湯を沸かす為の竃や湯殿を建てられる敷地を持たない町民は、寺の風呂を無料有料で使わせて貰ったり、都であれば町にある銭湯を利用したりしていた。
二条邸の湯殿は檜造りの小屋形で、東西南北6、7mもの広さがあった。
竃が二基に井戸も掘られ、一基の竃の上に据えられた桶で沸かされた湯気がもうもうと立ち上る。
竃の上部に造られた小さな小屋に簀が敷かれ、そこが蒸風呂という構造になっていた。
庭を眺めながら寛げるようにと、蒸気が抜け過ぎてしまわない程度に開け放たれた窓が庭園側に設けてあり、洗い場となる土間も広かった。
庶民から見れば若様育ちで風呂に毎日浸かれる身分の乱法師ですら、こんな贅沢で広い湯殿は夢のようだった。
ほんの一瞬なのか、それとももっと長い間か、美しい眺めについ没頭してしまった。
「見事な庭園であろう」
信長の声にはっと我に返り、家臣としての立場を一瞬でも忘れた事を失態と悔やむ。
だがこちらに向けられた瞳は楽しげで、笑みを浮かべた非常に穏やかな表情には慈愛が溢れ、彼を咎める様子は一切見受けられなかった。
信長が庭園の素晴らしさについて熱く語り始めた。
友に対するような気さくな態度に何時しか緊張も解れ、次第に話しに引き込まれていく。
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