第6章 祈祷

 琵琶湖は広大で海のようだと未だにそう感じた。

 ただ、人々が言うからそう思っていただけに過ぎない事に、最近になって漸く気付いた。


 乱法師は美濃で生まれ育った為、海の広さに馴染みがないのだ。

 それに近江も内陸部で、伊勢湾や若狭湾までは遠く離れている。


 天幕が張られた立派な御座船も、天から見下ろせば、この大きな湖の上では小さな点のようなもの。

 いや、琵琶湖でさえ恐らくそうなのだろう。


 だが間違いなく、琵琶湖も琵琶湖の畔に建築中の安土城も信長自身も、乱法師にとっては果てしなく巨大な存在である。

 さしずめ舟の上で揺られている己は、何一つ進む方向も決められず、水の流れに身を任せる事しか出来ない小さな泡といったところか。


 そうこうするうちに御座船は京に到着した。


 公家衆や畿内の大名小名等が数多く船着き場で出迎えるのに笑みも返さず、信長は二条の新邸に馬で向かった。


 寝殿造りの邸は真新しい木の香も芳しく、雅やかな内装に圧倒される。

 公家の頂点である五摂家の一つ、二条晴良の邸を改築したもので、武家屋敷とは全く趣が異なっていた。


 渡り廊下から見える庭園が殊の外美しく、つい見惚れてしまう。


 ふと視線を感じた。

 辺りを見回すが、側近衆や護衛の馬廻り衆に囲まれる信長等が先の方にいるばかりで怪しい人影は特に見当たらない。


 至って害は無さそうなので直ぐにその事は忘れてしまった。


 結局何事も無く朝までぐっすりと眠れ、女装したのが効を奏したのだろうと皆で喜んだ。


 早朝安土を発つ時からずっと信長は常日頃彼が馴染む顔とは異なる威圧的な雰囲気を纏い、真に近寄り難かった。


 実は信長の事を全く知り得ていないのではないか。


 勝手に知っていると思い込んでいた海のように、巨大な一部に微かに触れ分かった気になっていただけかもと思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。


 近衛前久の息子、明丸改め信基の元服式が厳かに行われた後、酒宴となった。


 膳を運んだり雑用の為隅に控え、集まった人々を観察している間に聞こえてくる細切れの会話に耳を澄ませる。


 一人の公卿の姿に目が止まった。

 公卿は年の頃、四十後半から五十代前半。

 ほぼ同年代の信長を基準とすると大分老けていたが、極めて見た目が若い信長と比較するのは少々酷かもしれない。


 青の直衣姿で位は判然としない。

 この場で末席とまでいかない座にいるという事は、殿上人(上流公家)であるのだろう。


 薄らぼんやりと評されてしまう程、春風の如き柔らかな雰囲気を纏う乱法師だが、実は人間観察と分析は得意なのだ。

 実は始めから、その公卿が吉田兼和であろうと気付いていたのだが、敢えて何故兼和と思ったかを分析して楽しむ事にした。


 年齢も人柄も、明智光秀の親友であるというのがしっくりくる。

 後は、殿上人であるのに、やや周囲に対して引け目を感じている様子からも吉田兼和である事が見て取れた。


 公家社会というものは家柄が物を言い、伝統ある名家が力を持つ仕組みなのだ。

 武家社会にも家柄による優劣はあるが、乱世においては実力でそれが覆される事態が頻繁に起こっている。


 清涼殿の殿上の間に昇殿を許される一握りの上級貴族は、古よりの名家で固定されている。

 公家社会では蛙の子は蛙で鳶の子も鳶の儘なのである。


 しかし嘗て、信長が将軍足利義昭と対立した時、上京を焼き討ちについて吉田兼和の助言を受けて以来、公家と武家との橋渡し役として、堂上家(昇殿を許される家柄)の最下位の家格、半家を獲得出来たのだ。


 最下位の家格、それが良いか悪いかは使い方次第なのか。


 吉田家の歴史は神使いというには余りにも俗物的で俗世にまみれていた。

 天皇や将軍の権威を上手く利用し、全国の神社を支配下に置いたやり口は実に巧妙である。

 吉田兼和という男もまた、権力に擦り寄り、目に見えぬ神仏よりも目に見える力を手玉に取る方が遥かに長けていたのかも知れない。


「上様がお気に入りの屏風って、そないに不気味な絵なんどすか?見てみいひん事には何とも申し上げられまへんが、悪いもんを祓うのんは得意どすさかい時間は大して掛らへん思います」


 吉田兼和の言葉がはっきり聞き取れた。


 世を動かす力は多々あれど、乱法師の目には祈祷師というよりも政治向きの人物に映った。

 何かに秀でた人間というものは、他者を圧倒したり包み込んだりするような独特の空気を纏っているものだ。


 正直、屏風から発せられる凄まじい邪気を祓える特別な何かを秘めているとは思えない。

 何もしないよりは、ましかも知れないが。


 自分自身も果心に苦しめられてはいるが、屏風が呪いの媒体となるのなら、危険なのは間違い無く信長である。


 彼にとって信長こそ最強の武将、この世で知る最も強い人間だ。


『今まで何とも無かったのじゃ。上様が果心になぞ負ける訳が無い』


 その心情は幼子が根拠も無く父親の強さを過信するのにも似ていた。


───


『安土から離れた……か。これは良い。屏風に籠められた呪いは容易には祓えぬ。吉田神道なぞ形ばかりの腑抜け揃い。くくく 、半端な祈祷は却って塗り籠められた怨念を強くするぞ! 守護が弱まっておる今、貴様の信じぬ呪いが無力かどうかを見せてくれるわ』


 大蛇が山の頂上にある大きな岩の上でとぐろを巻いていた。

 しゅーしゅー伸びる赤黒い舌の動きが無ければ、良く出来た石像と見紛うただろう。


 言わずと知れた、蛇の妖に変化した果心居士である。

 数日前に山道を這い進んでいた時よりも禍禍しさが増していた。

 身は一回りも大きくなり力強く、姿形がはっきりしたようにも見える。


 山の空気を吸い込み膨らんだかのようだ。


 果心の周囲だけ淀んでいた。

 だが神秘の山の空気は侵される事無く澄み渡り、穢れとして拒絶する様子は一切無い。


 鳥居や拝殿を構える神の山が、穢れた邪念の塊の果心を受け入れるのは、真に不可思議な事であった。


───


「これがくだんの屏風でござる」


 万見重元と長谷川秀一が、酒宴の後、緋布に覆われた屏風を吉田神社の神官、吉田兼和の元に運び込んだ。


 白色の浄衣に神職最高の身分である事を示す白袴白紋様の袴に着替えて座す吉田兼和からは俗っぽさは消え、厳格で神聖な雰囲気を醸し出していた。

 但しそれは馬子にも衣装の諺通りで、霊力まで増した訳では無いのが非常に残念なところだった。




 


 




 

 

 


 

 

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