此処で今、自分に起こっている怪異について話してしまいたいと思った。

 呪われた存在は信長をも標的にしようとしている。


「そういえば、屏風は……」


 何とか伝えたい。

 如何に信長が強かろうと、相手は人外の化け物である。


「ふふ、祓いをする事を承知したが処分する気は無い。儂を害する事は天下をひっくり返す事じゃ。たかが呪いで狙う相手を殺せるならば、武田や毛利に贈ってやりたいくらいじゃな」


 相変わらず揺らぐ事の無い自信に満ち溢れている。


「御体は大丈夫なのでございますか?例えば妙な物を見たり不気味な声を聞いたりなされないのですか? 」


 意を決して訊ねてみた。

 本当に何も無いのだろうか。


「何も変わった事は無い。それよりも、そなたは儂の身を案じてくれておるのか? 」


「上様のお強さは存じ上げておりますが、呪いが効くかどうかでは無く、呪う者がいるという事の方が一大事にて。私は屏風から悪しき気配を感じるのでございます」


 邪気を一番浴びて影響が無いという事があるのだろうか。

 強力な何かが信長を守護しているのだろうか。


 それにしても乱法師が心配事を口にすればする程、危機感に駆られるどころか、信長は愛しさが込み上げてくるばかりだ。


 眉を寄せ心配そうに見上げる顔は儚げでいじらしい。


「仮に悪しき者が屏風に宿っていようとも恐れる事は無い。儂には呪いが効かないのであろう。怖がらずとも良い。そなたは儂の側におれば安心じゃ」


 信長を守らねばと脅威を訴えていた筈なのに、逆に己の方が縋っているようになってしまっているではないか。


「私は怖くはありませぬ。何よりも恐ろしいのは上様に危険が及ぶ事にございます。私の事はどうでも良いのです。どうか上様を呪う者にお気を付け下さい。あっ……」


 信長の顔が近付いてきたと思った瞬間、また抱き締められた。


 最早、二人っきりになれば甘い雰囲気になってしまうのを止めようが無く、極めて美形の彼が忠義の言葉を並べ立てると熱烈な愛の告白のようになってしまうのは困ったものであった。


 怪異に気付いて貰う事は諦める他無かったが、今、褥に押し倒されるのだけは何とか避けたかった。

 頭の片隅に初夜の出来事や男色本で得た様々な知識が浮かんでくると身体がかっと熱くなり、信長の胸に手を強く押し当て身を捩る。


 拒む素振りと捉え、信長は啄んでいた彼の身を離した。


 自分の言いたい事が通じず、伝わらないもどかしさで乱法師は泣きたくなった。


「儂はもう休む故、隣の部屋に下がって良い」


 彼の髪を撫で穏やかに声を掛ける信長は心なしか残念そうであった。


 『今日は乗り気ではない』と単純に捉えたようだ。


 彼は何も悪い事はしていないのに、此度も果心について警告出来なかった事で、己の未熟さを責めずにはいられなかった。


 隣の部屋に下がり一人になると、思い詰めた表情で寝所の襖を見詰めた。


 安土城が出来上がるまでの仮の住まいとは思えぬ程、柱や欄間には昇り龍に棚引く雲、鳳凰、松、梅の花が、それはそれは立体的に彫られ見事な造形の美を成している。


 仮の御殿でこれ程絢爛豪華なのだから、諸国の匠を呼び集めて建築中の安土城の素晴らしさは如何ばかりか。


 燭台の火がじじっと音を立てたので、腰を浮かせて油が切れていないかと覗き込む。


 柱や欄間の彫刻も見事であるが、寝所を隔てる襖絵は狩野永徳によるものだ。

 これまた猛々しい虎が中央で睨みを利かせている雄壮な構図である。


 虎の傍らに立つ松の幹が、太く単純で力強く、荒々しいまでの筆致で描かれている為、襖絵全体が迫力と躍動感に溢れている。

 猛虎と松の木の存在感で目立たないが、枝に絡み付く一匹の蛇の姿も描かれていた。


 一瞬、その蛇が動いたように見えた。


 否、襖に映った影が動いただけであったのか。


 静かに端坐する乱法師の影が長く伸びた。

 細長い影は欄間の彫刻を越え天井にまで伸びて行く。


 燭台の炎がまた揺れた。 


 影は鎌首を擡げた大蛇の形を成し、頭と覚しき部分に紅い二つの点が浮かび上がり、禍禍しい光りを放っていた。


──

 

 天正五年の旧暦、閏七月。


 僅かな綿雲ばかりの青空が広がり、今日も一日中うだるような暑さになりそうだった。


 不寝番を終え森邸に戻ると、水を浴び朝食を済ませ文机に向かう。

 一眠りする前に金山にいる家族に文を書こうと決めたが、筆に墨を含ませ、いざ認めようとすると何を書いて良いか分からない。


 母の妙向尼からは一人立ちしたばかりの息子を案じる愛情細やかな文が頻繁に届く。

 健康に関しては勿論、精神面の事まで酷く案じている様子が文面から伝わってくる。


 故郷を巣立ったばかりの思春期の少年にとって母の温もりは未だ懐かしいものでありながら、幼子のように素直にその胸に飛び込む事は最早許されない。


 正直に今の状況を考えれば、書く事は山程あった。


 だが、どこの世界に遠く離れて暮らす母に、蛇の化け物に狙われているなどと知らせる愚息がいるだろうか。


 頭を悩ませた結果、『とても元気に過ごしていて上様は慈悲深く、皆に優しくして貰い、安土での暮らしにも慣れて毎日が楽しい』と大嘘を書いた。


「ふう──」


 書き終えるとごろんと仰向けで寝転び天井を眺める。


「そういえば思った通り昨夜は化け物の影も形も無かった。全く手も足も出ないという訳か。ああ、蛇じゃからのう」


 我ながら上手いな、と笑えてくる。


「上様の御側におれば何者も恐れずに過ごせそうじゃ。数々の戦で勝利されてきたのは、神仏の強い御加護もあるのじゃろう」


 そう考えると、むやみに心配する必要は無いやもしれぬと少し安堵した。


 信心深くない癖に凄い強運の持ち主なのだろう。


「どのような神仏が上様を御守りしているのであろう?化け物が苦手とするのは女臭さだけなのだろうか?弱点が見つかれば恐るるに足りないのじゃが」


『儂の側におれば安心じゃ』


 昨夜の信長の言葉が甦った。


 白い寝衣姿で褥に横たわり、衾を捲り上げ誘う姿を思い浮かべただけで、顔が火照ってくる。

 妄想は更にその先に進んだ。

 一切の衣を脱ぎ捨て肌を重ね絡み合う。

 信長自身を受け入れ、精が内に放たれる。


 抱く側の男性心理には未だ疎かったが、果心が激怒しそうな事だけは理解出来た。

 敬愛する主君相手に、彼にしては相当生々しい夢想に耽ってしまった事を恥じた。


 こんな風に心身が変化した事を、絶対に母にだけは知られたくなかった。


──


「腕香の男については誰も住み処も名前さえ知らないって。たまに辻に現れては幻術を見せて去ってくだけだって言ってたよ。後をつけた奴もいたらしいけど、文字通り煙に巻かれたってさ。」


 武藤三郎は果心の正体を突き止めるべく、腕香の男の正体を伴家の忍びに依頼して探らせていたのだ。


 射干の口から結果を聞いて肩を落とした。


「腕香の男よりも果心の正体探った方が手っ取り早いんじゃないかい?同一人物の可能性があるなら余計にさ」


「元は興福寺の僧侶であったが破門されたと聞いておる。路頭に迷ったのを哀れに思い筒井順慶殿が目を掛けておられたと噂では……」


 射干は呆れたように首を振った。


「噂が真実とは限らないよ。っていうか、そもそも人ですら無いかもだろう?荒木って奴に斬られた恨みで霊魂か妖怪に変化したって見方も出来るだろうけど。元が人間なのに蛇の妖怪になるっていうのも変だしさあ。思うに果心なんて坊主がそもそも興福寺にいたのかってとこから洗い直した方がいい気がするけど……あっいててって……」


「どうした? 」


「あっ、ちょっと廁! 」


「顔色が悪いようじゃが悪い物でも食べたのか」


「ああ、もう!男には分かんない話しだよ。また潜っちまうから果心の件は太郎左様(伴家の棟梁)に言っておくよ! 」


 そう言うや廁の方に凄い勢いで走って行ってしまった。


 腹の調子が悪いのは食べ過ぎに違い無いと勝手に納得し、射干の言った事を、もう一度反芻してみる。




 



 






 


 





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