骨が軋む音と共に巨大な口が更に大きく裂けると、上下の鋭い牙と牙の間に粘つく唾液が細い糸を引く。

 小猿が頭からぐいぐいと飲み込まれていく。


 大蛇の太さは成人男性の胴回り程もありそうだったが、その儘では流石に丸呑みは出来ないようだ。

 蛇の肋骨は胸骨で繋がっておらず、獲物を丸呑みする時には扉のように左右に開く仕組みになっている。


 胴体が横に平たく伸びた。


 嚥下する度に小猿の膨らみが下へと移動していくのが、蛇の喉や腹の皮が伸び縮みする様子から見て取れた。

 ごくりごくり、喉を鳴らしながら腹に獲物を収め終えると白い巨体を畝らせ山奥に姿を消した。


───


「結局未だに荒木の行方は突き止められぬのじゃな」


「はっっ!殺された果心が素性も知れぬ卑しき者という事で、熱心に探さなかったというのもあるのでございましょう」


 大和の信貴山城である。

 松永久秀は摂津への出陣支度の真っ最中であった。


 既に七十近い老体である。


 松永が信長に命じられたのは、石山本願寺から南方一里(約3.9km)にも満たない距離に位置する織田方の天王寺砦の守備であった。

 六十代の老人とは思えぬ程の肌の艶、張りではある。


 身体の頑強さには自信があった。

 だがそれは日頃からの摂生の賜物であって、努力せずに維持出来ている訳ではない。

 特に中風を恐れ、一日の内の決まった時刻に必ず頭頂に灸を据えるなどして健康には気を使っている。


 とはいえ、常に側に置いている美形の若衆、弓削三郎に支度を手伝わせているのだが、ともかく甲冑が似合わない。


 単純に見た目では無く、この年で具足の紐と兜の緒を締め、最前線に駆り出されるという事そのものに違和感があるのだ。


 天王寺砦といえば、嘗ては織田家重臣原田直政が築き命を落とし、明智光秀も本願寺の猛攻であわや討ち死にしかけた攻めの要所である。


「全く人使いが荒い」


 誰に言うとも無く呟いた言葉を弓削三郎は耳にしたが、手を休めずに主の具足の紐を無言で締めていく。


 信長の人使いの荒さは今に始まった事では無い。


 それよりも城の東方に位置する、嘗て機内の大名小名、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスをさえ驚嘆せしめた美しい城、多聞山城を見る度に、腹の底から憤怒が湧き起こる。


 彼が粋を凝らした他に類を見ない豪奢な城を、事もあろうに信長は破却せよと命じたのだ。


 遮蔽物が殆んど無い時代である。

 標高500m以上の信貴山城から多聞山城までは軽く見通せてしまう。


 宿敵筒井順慶が大和守護に任じられただけでも腸が煮えくり返るのに、よりによってその順慶に城の破却を命じるとは何事か。


 毎日、嫌でも眺めずにはいられない。

 心血注いで築いた城が壊されていくのを。

 信長が何を考えているのか分からなくなっていた。


『儂の忠誠心を試しておるのか?それとも、人の心が分からぬうつけなのか? 』


 時に忍びを上手く使い、旗色を常に窺いながら世渡りしてしてきたからこそ、権力闘争が激しい畿内で生き残ってこれた。

 若造に頭を下げるのも、昨日までの敵と手を組むのも厭わない。


 信長に臣従の姿勢を取りながら、将軍足利義昭の直臣である事も許され、やがて対立するようになっていった。

 複雑な政治と軍事が絡んでいたが、最も単純な要因は足利義昭の順慶への肩入れだった。

 同じ家中に仇敵同士がいるというのは有りがちな話しなのだが、匙加減を誤り片一方に肩入れすれば、もう一方の離反を招いてしまう。


 松永は義昭の元を離れた。

 それなのに、またしても──


 棺に片足を突っ込んでいるような年だからこそ考えてしまう。

 大和の支配者は順慶で揺るがず、嘗ての己の権勢の象徴が破壊されるのを指を咥えて眺め、唯々諾々と従う儘に前線に送られ、扱き使われて生涯を終えるのか、と。


 生き残るとは、老いて畳の上で死ぬ事なのか。

 己の気持ちを誤魔化し従い続けたとて、孫子の代まで地位や領地が引き継がれる事は無いだろう。

 それは譜代の家臣ではなく、能力の高さで頭角を現したり他家から寝返った者達が抱く不安である。


 再び浮上するには、大手柄を立てるか順慶が失態を犯すかしかないのだ。

 果心居士の一件で、何か襤褸ぼろが出ぬかと期待して探らせていたが、望む情報は得られていない。

 後は最早──


 松永は唇を噛み締め天を仰いだ。


 弓削三郎はそんな松永を静かな眼差しで見詰めていた。


───


「今宵は久しぶりの不寝番じゃ」


 夕陽に向かう烏達の鳴く声で、乱法師は外に目を遣り呟いた。

 久しぶりというのは、小姓の数が多い為、順番がそんなに回ってこないからである。


 彼の心が波立つのは、初めて不寝番を命じられた日が、信長との初夜となったからだ。

 ほんの少しでも気を緩めれば、忽ち淫靡な雰囲気に傾いてしまいそうで不安だった。


 とはいえ、果心の妄執を考えれば却って不寝番は都合が良い。

 あらゆる不確かな存在を、断固たる信念で否定出来る信長の強さは頼もしい限りだ。


 神仏まで否定してしまうのは時として問題もあるが、信長の側にいれば果心の訪れは今宵は無いだろうと確信出来た。

 流石に女装する訳にはいかないので、実践するのは明日以降からとなっている。

 

 夏の日暮れは遅い。

 なれど陽が落ちて暫くすれば、家の明かりは大方消される。

 深夜でも煌々と明かりが灯っているとしたら戦場の篝火くらいであっただろうか。


 明かりを灯す為の油は高価である為、節約や火事の危険も考えての事か、町民の家では早々に就寝となる。


 但し信長が住まう仮御殿においては、全ての明かりが消される事は無論無い。

 燭台を持った小姓を伴い、信長が寝所の手前の部屋に入って来た。


 手を仕え平伏する乱法師を見て声を掛ける。


「今宵はそなたか」


 短い言葉の中に特別な思いが含まれている事に果たして気付いたのかどうか。


「はっ! 」


 日中ならば違和感無く聞こえるであろうはきはきとした返事は、夜の静寂に妙に浮いて響いた。

 



 


 


 


 






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