ぐうぅゥ


「腹減った。そろそろ朝飯って頃合いだろ?」


 言われてみれば、すっかり夜が明けきっていた。

 皆の眉間の皺が伸び、深刻な空気が和む。


「そうじゃな。朝飯を食べながら続きを話そう。確かに腹が減ってきた」


 平時の朝食は一汁三菜が基本で、折敷の上には玄米のご飯、瓜の白味噌汁、うけいり(つみれのような魚の身を丸めたもの)の味噌和え、すぐき菜の漬物、すすぎの焼き物、かぼちゃの煮物が並んだ。


「うっひゃー!これは、旨そうだね」


 男達に匹敵、いや、それ以上の旺盛な食欲を示し、射干は玄米飯を勢い良く掻き込んだ。


「もう少し淑やかに出来ぬのか」


「何だい。どっからどう見てもこれ以上無い程見た目が女らしいあたしに言う事かい? 」


 藤兵衛の苦言に米粒を飛ばしながら反論する。


「確かに見た目だけは……待てよ!女そのものが嫌いなのではないでしょうか?」


 味噌汁を啜っていた三郎が顔を上げた。


「匂いだけではないという事か?もしそうなら白粉の匂いだけでは駄目という事になるが。」


 乱法師は味噌汁に入っていた瓜を飲み込んだ。 

 美濃出身の彼が馴染み深いのは、大豆を蒸して作られた味の濃い豆味噌である為、安土に来た当初は関西風の甘口の白味噌に中々馴染めなかったものだ。

 ところが今や京の漬物も大好物で、白味噌もすっかり気に入っている。


「生臭いというのは例えで、女臭いという意味では?乱法師様に邪な思いを抱いているという事からして稚児を好む傾向が強いのではないかと思われまする。射干は態度や言動はどうであれ、見た目は男から見ればそれなりでございますし、近くで匂いを嗅いでも白粉の匂いはほとんど致しませんでした。それ故、女らしい見た目を好まないのではないかと思ったのです。普通の人間では嗅ぎ分けられぬ微かな匂いに反応した可能性もございますが。」


「それなりってとこが引っ掛かるけど……まあ、あたしの色気にたじろいで逃げ出したっていう意見には大賛成だよ。じゃあ若の護衛に色っぽい女を側に置いておくって事かい?そんな事したら信長公が──」


「我等が話し合っている事は推測に過ぎぬ。幸い上様が数日後に御上洛される御予定であるから、その時に吉田兼和殿に我等も相談してみてはどうであろうか」


 伊集院藤兵衛の言う事に乱法師の表情が少し晴れた。


「ただ、強力な術者に縋ろうにも、今少し正体を突き止めておくに越した事は無いかと存じまする。女特有の何かを嫌がっておる可能性は高いのです。上洛までの間、あらゆる手段を講じてみるべきでありましょう」


「確かにな。ただし色っぽい女を御側に置くなど言語道断。そんな事をすれば化け物よりも恐ろしい現世の怒りに触れてしまおうぞ」


 奥手な乱法師にはぴんと来なかったが、白粉の匂いをぷんぷん漂わせた女が側にいたら落ち着かないだろうなとは、ぼんやり思った。


「三郎、儂はそなたに告げていない事がまだまだ沢山ある。藤兵衛や射干にも。妖が相手では槍の穂先を磨いたところで役には立たぬ。正直儂は恐ろしい。情けないと思うだろうが恐ろしうて堪らぬ。妙案があるのならば試してみたい」


「お痛わしい。無理に仰せになられる必要はございませぬ。きっと口にするのもおぞましい言動や振る舞いの数々──この手で引き裂いてやりたいような怒りを覚えまする。一刻も早く御心痛を取って差し上げたい」


「三郎……」


 麗しの姫君を守る武者宜しく、凛々しい眼差しを見つめ返す乱法師の瞳は僅かに潤み、艶めいて見えた。


「乱法師様には御休みになられる時、女性に化けて頂く」


「え?」


 三郎以外の三人が同時に目を見開いた。


「若に女の格好をしろって事かい? 」


 たまに鋭い意見で皆を驚かせる射干の口回りは米粒だらけで、料理を全て平らげ終わっているのは彼女だけだった。


「その通りじゃ。化粧を施し女物の寝衣をお召し頂く。確証は無いが女々しい御姿なれば邪な欲望は萎え、興味を示さなくなるやもしれぬ」


「ふうむ。それは試してみる価値はある。若様に恋い焦がれているのなら、その情が失せれば当然近寄らなくなるという訳か。若様、ここは一つ三郎の策を試されてみては?女性の姿にとは抵抗がおありとは存じますが」


「いや、その策、試してみたい」


 乱法師は力強く答えた。


───


 川が流れている。

 川の畔に咲いた沢山の薄紅色の百合が風で揺れている。

 流れる川は水底まで澄み、花々は艶やかで美しい。


 松、杉、榊、楠、桜、数えきれぬ種類の大木が生い繁り、吹き抜ける柔らかな風で緑葉がさざめく。

 絵に描いたような長閑な風景に馴染む愛らしい小鳥達の囀ずり、小動物達の鳴き声が一瞬止んだ。


 ずずっっずずっっ


 何か重い物を引き摺る音が近付いてくる。

 その直後、鳥達が一斉に木々から飛び立ち、小動物達はけたたましく鳴き叫び、捕食者に追われるが如く木々の間を飛び回り逃げ惑う。


 『それ』は、清浄な空気を纏うこの山に似つかわしくない生き物に見えた。


 大雨が降ったのか。

 地面はぐずぐずと泥濘ぬかるんでいた。

 灰色の泥土の上を滑滑と這い、不気味に蠢くのは白く巨大な蛇のような生き物であった。

 禍禍しく、尋常ならざる邪気を放ちながら移動していく。 

 極めて邪悪な生き物の出現にも、山の気はあくまでも清浄で一毫の乱れもない。


 干渉せず、あるが儘を静かに受け入れているかのようだ。

 山の持つ神秘の力は、生きとし生ける者全てに恩恵を与え賜うのか。

 人の世で忌み嫌われる存在とて決して拒まないのか。

 善も悪をも超越した雄大な自然の中では何者も等しいと言わんばかりに。


 大蛇は川のせせらぎに身を浸した。


「ぐぐ、乱法師を抱き締め早く肌に触れたい。そして信長を天下の座から必ず引摺り下ろしてくれようぞ」


 この山に住むか弱き小さな生き物達。

 声を潜めて大蛇がこの場を立ち去るのを震えながら待っている。


 川から上がり再び泥濘を這って行こうとする大蛇の様子に安堵したのか、キキっと小猿が思わず鳴き声を上げてしまった。


 巨大な鎌首がぐっと持ち上がる。

 紅い目が爛々と輝き、長い舌がしゅるしゅると細かく伸縮する。

 紅い虹彩が鳴き声の方に向けられた。


 瞬間、目に見えぬ速さで小猿に食らい付いた。


「ぐぐげうふ、げううぐぐうご」


 

 



 



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