「それよりも気になるのは何故化け物が退散したのか、という事です。湯殿では皆が駆け付け事なきを得た。此度は声を発する事も出来なかった。射干の気配を感じ取り退散したのでしょうか?姿を見られたくないのなら、周りに必ず誰かいれば現れぬのでは? 」


「中々鋭いような気もするが、女一人を恐れるというのも妙な話しではないか。弱点はあるのじゃろうが陰陽師にでも頼んだ方が良いのではないか?若様、何かお心当たりはございませぬか?果心の声を耳にされているのは若様だけなのです」


 皆の議論を他所に、ぼんやりと考えに耽っていた乱法師ははっと忘れていた事を突然思い出した。


「そういえば臭いと言っていた。頭に響いたのじゃ。女め!臭い堪らぬ。生臭い臭い女めと」


「なあんだってぇぇ?なんって失礼な化け物だい!ちゃんと風呂くらい入ってるさ!そんなに臭いって言われる覚えはないよ! 」


 醜女と馬鹿にされるよりも、ある意味女としての資質を問われる不潔さを化け物如きに指摘されたのかと怒りで立ち上がる。


 三郎が近寄って鼻をくんくんする。


「そこまで臭いはしないようじゃが」


「済まない。儂では無い。あくまでも化け物が──」


「それは分かってるよ!化け物を退散させる程臭い女って思われたのが腹が立つんだよ! 」


 弁解を遮り、すっかり顔をしかめて機嫌を損ねている。


「嫌いな臭いがあるのやも知れぬ。射干、身に付けている香は何じゃ? 」


「そんなもん付けてないよ。忍びとして潜るには邪魔だからねえ」


「ふむ……女特有の匂いが嫌いなだけではないのか?男からは絶対にしない香り、例えば白粉の匂いとか」


「鋭い!化粧の匂いが嫌いなだけかも。確かに遊び女達の白粉の匂いは構キツい。気持ち悪くなるのも頷けますな。」


「待て!三郎、そなたは廓に行った事があるのか?」


 余り今重要では無い点を乱法師が追及する。


「当たり前じゃあないか!三郎だって男だよ!野暮な事をお聞きでないよ。若はいつまでたってもネンネだねぇ」


 安土に来てから意外と一番気にしている事を言われ、胸にぐさりと突き刺さった。


「女子に厚化粧をさせて乱法師様の褥の周りを囲ませたら如何でございましょうか? 」


 ぼうっとしている乱法師に構わず、妖魔退散の対策案が上げられる。


「でもさあ。ちょっとやり過ぎじゃあないのかい?入念に化粧した女達を大勢閨に侍らせてるなんて噂が立った日には信長公がどう思うか……」


 三人はちらっと乱法師に目を遣るが、まだ心此処にあらずだ。


「白粉の匂いが嫌いというのは、あくまでも仮定の話しじゃが、袋に白粉を入れて吊るしてみるというのはどうであろうか?」


「確かに妙案ですが効果が弱いような、もっと確実な方法が無いものかと。何しろ湯殿や閨では全くの丸腰で、口を塞がれでもしたら駆け付けようがありませぬ。一晩中添い寝をする訳にも参りませぬ故……」


 そう口ごもる三郎の頬が少し赤らんだ。

 例え一度でも信長の寵を受けた主の身辺に、ふしだらな噂が立つような真似は慎まねばならない。

 だが頬を赤くした三郎には、自覚していない深く秘めた思いがあったのやもしれぬ。

 何しろ、己の身を守る事に対して単純な防御の心得しか持たぬ無垢な主である。


 化け物の事は本人も重々危険と承知しているが、信長の寵愛を保つという事に関しては余りにも無頓着過ぎた。


 そもそも人の心に巣食う化け物の方が余程恐ろしい。

 信長の比類無い寵に対する妬心という名の魑魅魍魎共が、乱法師の袖に数多取り憑いているのが目に見えるようであった。

 化け物とは元々人の心にある邪な感情が具現化しただけなのかもしれない。


「何か妙案はございませぬか? 」


 三郎に問われ、乱法師は我に返った。


「皆があれこれ考えてくれているというのに詳しい事を話せず申し訳無かった。儂が話せば良い案ももっと出てくるであろう。だが全てを話すのは……長くなる故、短く簡潔に言おう。果心が儂を狙うのはどうやら、その……」


 おぞましい恋情、欲望に満ちた光る赤い目玉。

 とうとう男根を昂らせ、実際の行為に及ぼうとした事。

 喉元まで出かかった言葉をつい呑み込んでしまう。


 どうにか気持ちを奮い起たせ全てを打ち明けようと口を開いた。


「果心って奴は若に惚れてるんだろう? 」


 二人の男達は一瞬呆けた。

 しかし乱法師の表情を見て真実と悟った。


「確かにそちの申す通り、奴は儂に懸想しておるようじゃ」


「まあ、ざっくり話しを聞いた限りでは、そうとしか考えられなかったからねぇ」


 後の二人は首を傾げる。

 射干は今日知ったばかりで本当にざっくりとしか聞いていない筈なのに何故それに気付いたのか。


 乱法師は観念してぽつりぽつりと語り始めた。

 辻芸を見て以来、時折妙な声が頭に響き、印象的な出来事であった筈なのに、思い出そうとすると強い赤光で記憶が霞んでしまう事。

 果心居士が己に異常な執着を示し心話で語り掛けてきた事。

 話しの内容から腕香の男と同一人物であり、乱法師と強く繋がっていると主張してくる事。

 果心が斬られたと覚しき刻に地獄絵図の屏風が禍々しさを増し、信長を呪う言葉が聞こえてきた事。


「何と!上様を呪っておるとなれば一大事ではございませぬか」


 伊集院藤兵衛の血相が変わる。


「上様の御手元にまだその屏風があるのでございましょう?早急に処分せねば危険でございます」


「無論、歴々の側近衆も不吉な気配を感じ取り策を考えておられる。それに上様御自身が極めて強い気をお持ちなのか、今のところけろりとされ常と代わらず御元気でおられる」


 考えてみれば果心の持ち込んだ物であるのだから、怪異を鎮めたければ先ずは屏風を何とかすべきなのだ。


「吉田神道の神官、吉田兼和殿に祈祷を依頼すると万見殿が申されていた。数々の祈祷で不治の病を治された事もあるとか」


「おお!それは心強い!では一先ず上様の御身は安全でございますな」


 吉田神道とは吉田兼倶により室町時代に大成し、百年以上の歴史がある。

 仏教、道教、儒教の思想に加え、陰陽道の形式、加持祈祷は密教から取り入れているというから、当に良いとこ取りの節操のない宗教であった。

 吉田兼倶は口が達者で世俗的な才能に大層恵まれていたのか、時の幕府や朝廷に取り入り全国の神社を吉田家の勢力下に収めた。


 そのような訳で、神道といえば吉田家であり、素人から見れば加持祈祷の専門家なのだから、任せて間違い無しと安堵したのも無理からぬ事であった。








 









 





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る