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九死に一生を得た光秀は、今度は過労の為に死の淵を彷徨う事態となってしまった。
その時、病の祈祷を行ったのが親友の吉田神社の神官、吉田兼和である。
本当に祈祷のお陰かは分からないが、ともかく病は回復した。
一応回復しているのだから、兼和の祈祷は効果があったと見るべきだろう。
病の原因そのものが邪気によるものとの考えから祈祷に頼る訳だが、平癒祈願と悪霊退散とでは人を苦しめる邪気の具体性が異なる。
古より神使いと言われた吉田神道の継承者、兼和の祈祷が病には効いても、果たして悪霊や呪詛を返す程に攻撃力があるかは疑問だった。
ただ、この時点では万見も話しを持ち掛けられた光秀も、取り敢えず祓だけでもという軽い気持ちで、その手の話しに乗り気でない信長を納得させただけで満足していた。
そのような中、果心の闇の能力を知る筒井順慶には懊悩があった。
荒木が行方知れずである事と、嫌われ者の果心の死を悼む者がいなかったのが幸いして、今のところ騒動の責任を追及されずに済んでいるが。
自ら口を挟み、波風を立てたくなかった。
───
白い湯気に包まれた湯殿に歌声が響く。
「お湯加減は如何がでございますか? 」
「うむ、ちょうど良い」
湯殿の入り口に控える武藤三郎の問い掛けに、乱法師が明るく返す。
思わず今様を口ずさんだのは、あの事件以来 、三郎が必ず側に控えていてくれる安心感からであろう。
乱法師から言い出した事では無い。
出仕が決まってからは若様暮らしを卒業し、身の回りの事は極力自分で済ませるようにしてきた。
故に湯殿の入り口に家臣や小姓を控えさせる事も久しく無かったのだ。
だが先日の一件があり、三郎から申し出た。
「暫くの間、此処に控えている事を御許し下さい」と。
主の気持ちは三郎にはお見通しだった。
勇敢さを求められる武家の少年が、「怖いから側にいて欲しい」などと言い出せる訳が無い。
それを感じ取り、自ら願い出て主の体面を守ったのだ。
乱法師より三つ四つ年が上なだけなのに、かなり老成している。
「六助と藤吉郎は元気かのう」
そんな三郎の思いやりを知ってか知らずか、大人びた外見とは裏腹に、鷹揚とした乱法師が問い掛ける。
都で猿引きを見てから、そんなに日が経っていないというのに、また会いたいという気持ちが、そんな事を言わせるのだろうと三郎は思った。
「何か言伝てがあれば私が使いをして様子を見て参りましょうか? 」
「うむ、そうじゃのう。たった一度とはいえ楽しく語らい親しみを覚えた。何かの縁やも知れぬ。都と安土はそう遠くない故、気軽に訪ねて参れと伝えて欲しい」
「承知致しました」
湯殿から上がると、汗が引くまで縁側で寛ぐ事にした。
夏の夜の涼風に当たっているうちに無心になる。
小姓勤めは常に忙しく、気配りも求められる中々の体力仕事だ。
十代の少年達なら体力面では問題ないが、何しろあの信長の側仕えでは繊細で神経質な者達は疲弊してしまう。
その点、乱法師は大らかで鈍く、嫌な事は直ぐに忘れてしまう質で意外と鬱憤を溜めずに済んでいた。
信長の寵愛が過ぎるあまり小姓部屋では妬まれ苦労する事もあるが、それ以外の家臣達には比較的優しくして貰っている。
直ぐに床に入るのも物足りないので冷酒を嗜む。
先程まで涼しいと思っていた風が何やら生温く感じたのは酔いのせいなのか。
明日も勤め故、程々にしておこうと
ほんの少し開けた障子の隙間から微風が入り、コオロギやキリギリスの鳴き声も耳に届く。
夏虫達の合唱を子守唄として瞼を閉じると、いつの間にか眠りに落ちてしまった。
コロロロロローリーコロロロロロローリー ジージジージ ジージーー
シュゥーーシューーシュゥーー
乱法師の瞼が微かに開いた。
だが、はっきりと覚醒した訳ではないので前後不覚夢現の状態であった。
何に依って目覚めたのか。
虫の声がぱたりと止んで、シューシューという奇妙な音に代わり五月蝿いと感じたからかも知れない。
寝返りを打とうとして、上に掛けていた筈の薄い夜具が無い事に気付いた。
それに身体も仰向けの儘何故か動かない。
自ずと瞼が開いた──
紅い……紅い……
あっあぁーーああ──さ、ぶろ
乱法師は叫んだ。
いや、叫んだつもりだった。
悲鳴は音にはならず、ひゅーひゅーと微かで苦し気な呼吸として発っせられただけだった。
深更を過ぎた真っ暗闇に、紅い二つの点だけが浮かび上がっている。
その血のような紅さ、禍々しく纏わりつく淫らな眼差し。
ひゅーーひゅっうーーひゅーー
己を縛る者の正体を悟り、必死に声を出そうと試みるが空気が抜けたような弱々しい音が洩れるだけ。
助けを求めて唯一動かせる眼が部屋中をさ迷う。
だが助けになりそうな何かは見付けられ無かった。
身体の自由と声を奪われ、視線は嫌でも紅い点に吸い寄せられる。
紅が三つに増えた。
三つ目の紅は三日月を横にしたような形で、暗闇にいきなり出現した。
それは耳まで裂けた真っ赤な口だった。
目が慣れてくるに従い、詳細まで明瞭になる。
自身の置かれた状況を見れないのが唯一の幸いだったかも知れない。
頭の上で重ねられた両手首にも、褥の上に投げ出された両足首にも、黒い紐が絡み付き彼の自由を奪っていたからだ。
目を凝らせば、其れ等は蠢く無数の黒い蛇である事が見て取れた。
時折、彼等を使役する主人と同じく口を大きく開け、先端が裂けた赤黒い舌をちろちろさせシューシューと威嚇音を鳴らしていた。
乱法師は必死に気持ちを奮い起たせた。
しかし恐怖と悔しさで目に涙が滲み、紅い虹彩を睨み付けるのがやっとだった。
『睨んでも無駄じゃ。可愛いい顔をして淫らな振る舞いを良くも儂の見ている前でしてくれたものじゃ。何故分からぬ?儂の気持ちが──そなたを見初めたあの日以来、我等には特別な絆が出来たというのに。誰よりも強い絆じゃ。信長よりもずっとずっと──そなたは裏切ったのじゃ!許さぬ! 』
聞き覚えのある声が頭に響いた。
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