有無を言わせぬ強い口調に乱法師は承諾するしか無かった。


───


「家族に文は書いておるのか? 」


「はい、母には時折こちらでの様子を知らせておりまする」


 乱法師が信長と二人っきりになる機会は意外と多く巡ってくる。

 信長がそれを頻繁に望むからだ。


「そうか、こちらの水には慣れたのか?具合が悪いと耳にする事が多いように思うが、そなたはまだ年若い故、母や故郷を恋しく思う事もあるのだろう」


「折角召し出して頂いたのに何のお役にも立てず口惜しい限りでございますが、決して故郷に戻りたい、母を恋しいなどという柔弱な思いを抱えている訳ではございませぬ。度々具合が悪いのではと上様にお気に掛けて頂き心苦しく……真に役立たずめの泣き言と思われるのは覚悟の上で申し上げますが、それについては……その屏風……」


 敬愛する主君に子供扱いされ、ややムキになる口調の裏で、真は故郷も母も恋しくて仕方が無かった。

 ともかく万見に強要されたからとはいえ、体調が優れない原因は確かに屏風のせいと思うが故に、勇気を振り絞り訴えようとした。


「役に立っているかいないかは儂が判断する」


 腕の中に抱き寄せられ、一旦口をつぐむ。


「私は初陣とてまだでございますし、小姓としたら未熟で出仕する度に具合が悪くなる軟弱者。何の役に立っているのか、ただ決して身体が弱い訳では無く、その屏ぶ……」


 最後まで言い終わらぬ内に、彼の顔は信長の胸に押し当てられ、話しはまた中断されてしまった。


「どうすれば儂に気に入られる、何を言えば喜ぶなど考える必要は無い。第一そなたには似つかわしくない。媚びへつらってばかりの薄汚い大人にはなるな!そなたは、その儘で良い! 」


 力強く言うと彼の顔を両手で包み込み、真っ直ぐ見詰める。


「上様……」


 乱法師は身体を支える芯が溶け崩れ、全身から力が抜けていくのが分かった。


「そなた、出仕する度に具合が悪いと申すのは儂の顔を見たく無いからでは無いのか?怒ったりせぬ故正直に申せ」


「そのような!上様の御側に毎日置いて頂いて、これに優る幸せはございませぬ。具合が悪くなるのは──何もかもがその屏──」


 信長の手が頬に当てられ、ぐっと顔が近付く。

 初夜の淫靡な記憶を想起させる熱に圧倒され、言葉が続けられない。

 屏風の事はどうでも良くなってしまった。


「そなたは儂の事をどう思っている?乱──」


 熱い情熱を湛えた瞳から視線を逸らせず鼓動が高鳴り、唇が震え言葉が勝手に零れ落ちた。


「お慕い申し上げておりまする……」


 単に広義の意味合いであったのかもしれない。


 しかしこの場面で口にすれば、信長の意に添う甘い蜜のような香りを放ち、案の定彼に向けられる瞳は愛しげに細められた。

 彼の頬に置かれた手が髪に移り、優しく何度も梳き掻き上げる。


 とんでも無い事を口走ってしまったと自覚した時には既に遅く、唇が塞がれていた。

 今此処で先の行為に進みそうな予感に胸の音が鼓膜に響く。


 どくん──どくん──どくん──


 お…の……れ……おの…れ…ゆぅるぅ……さぬ‥…ゆる…さぁ…ぬ……


 乱法師の身体が突然大きく仰け反った。

 紛れもなく『あの男』の声だった。


 悪寒、頭痛、息苦しさに襲われ、甘い部屋の空気が一変する。

 信長の胸を押し退け、愛撫から逃れた。


「どうした──」


 乱法師の顔は蒼白で額には汗の粒が浮かび目は見開かれ、がたがたと震えながら屏風を凝視していた。


「屏風が──屏風が──」


 地獄の炎は憤怒しているかのように轟々と燃え盛り、血の玉が沸々と浮き出ては膨れ上がり流れ落ちていく。

 特に彼を震え上がらせたのは、数多の鬼も亡者の目も爛々と輝き、その全ての視線が彼に注がれていた事だ。


 ぎょろりぎょろりと動く目玉には、怒り、妬み、恨み、妄執、劣情、人のありとあらゆる負の感情が込められていた。


「屏風がどうした?ああ、怖がる事は無い。どのような仕掛けかは分からぬが日によって趣きが異なるのじゃ」


 それにしても驚くべきは信長の豪胆さである。

 特に動じる様子は無く、涼しい顔で肩を抱き優しく宥めた。


「目が……鬼の目が、こちらを睨んで……」


 主が全く動じていないのに己ばかりが怯え情けない限りだが、この手の現象に対する耐性には向き不向きがあるのだからやむを得ない。

 

 けが……しい……うらぎった‥‥‥よくも……つなが…ておるのに……のぶながもそなたも……ゆる…さ…ぬ……


 再び声が陰々と響き、頭骨を鷲掴みにされたように痛んだ。


「声が──」


「落ち着け!鬼の目は睨んでなどおらぬ。色合いは生き生きとしておるが、それだけじゃ。声?儂には何も聞こえぬ」


 乱法師は漸く理解した。

 信長は常人が気付かぬ事には勘が働く癖に、他の物事には鈍いのだという事を。

 この感覚的な違いは大問題である。


 他愛ない事を人と共有出来ない訳ではないが、霊魂や妖に関しては、信じてみようとか、もしかするとという考えすら沸かないようなのだ。

 目の前で不可思議な現象が明確に起きたとしても、何か仕掛けがあるのではと満足いくまで徹底して調べる面倒臭い質である。


「そなたの前に屏風を広げるのは止めにしよう。確かに斯様な不気味な絵は好まぬであろうな。そなたは──」


「上様……」


 有難い話しではあるが、根本的に言わんとする事が全く伝わっていないようだと感じ、どうすれば分かって貰えるかと悩んだ。


「どうか私の申す事を信じて下さいませ。果心とその屏風は未だに繋がっていて、上様を呪っているのではと心配でならぬのです。もし……もし上様の御身に良くない事が起こったらと思うと胸が苦し……」


 そこで信長の指が優しく乱法師の唇に当てられ言葉を制した。


「そなたの気持ちは相分かった。なれど果心は死んだのじゃ。荒木はまだ見つかっておらぬが、果心が物言う事が出来たなら儂に対して怨み言の一つも言いたいやもしれぬ。だが恨まれる覚えは無い。乱、自身を責めるな。己は間違っていないという確固たる強い気持ちがあれば妖など恐れるに足りぬ。そなたは役に立っている。安土に来て間もない為、少し疲れているのであろう」


 本来ならば涙が出る程嬉しい言葉であろう。

 しかし手強い信長に打つ手は無いと悟り絶句する。


「休みが欲しくば遠慮無く申せ。戯れ言ではなく曲直瀬道三を遣わそう」


 名医曲直瀬道三の名を再び出され、却って具合が悪くなりそうだった。


「この屏風の前で睦言を交わす気にはなれぬ気持ちは確かに分かるのう」


 信長は、他の者に彼を盗られたくない一心で、初夜に強引な行為に及んでしまった事が、未だに彼を怯えさせているのではと内心案じていた。










 





 


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