「貴様に怖いものはあるのかとな。何と答えたと思う? 」


 どうにか答えを捻り出そうと真剣に考え込む。


「上様、でございましょうか? 」


「くは、はっはあはは!何じゃ、そなたが怖いものを聞いているのではないぞ」


「そんな、違いまする。そんなそんな...…」


「儂ではない。何と、あの松永が化け物と申しておった。しかも女のな」


「化け物、でございますか」


「幻であったようじゃがのう。背筋がぞっとしたそうじゃ」


 信長は松永から聞いた話しを語り始めた。

 それは恐ろしいというよりも実に不可思議な物語であった。


 怖いもの知らずの松永が人づてに聞いて興味を持ち、多聞山城に果心居士という幻術師を招いた時の事。


「数多の戦場で弓矢が飛び交う中を駆け巡り、強い敵と渡り合って来たが、恐ろしいと思った事は一度も無い。そちは儂に怖い思いをさせる事が出来るか? 」


 と、松永が訊ねたところ、果心居士は不敵な笑みを浮かべて言った。


「宜しいでしょう。お人払いをなされ、たった一人でこちらにお出で下さいませ」


 そこで誘われる儘に庭に降りたという。


 暫くすると心地好い秋の宵の名月が朧に霞み、妙に生温い風が頬を撫で、そのうち小雨まで降りだした。

 突然辺りは寂寞とした色彩に変わり、しとしとと降る雨のせいか、じめっとした空気の冷たさに身体が思わず震えた。


 単純な冷気だけではない。

 心の底から湧き上がる、肌をざわつかせる、おどろおどろしさを感じたからだった。

 微かに己を呼ぶ声が聞こえ、はっと身体を固くする。


 寒い筈なのに着物は何故か汗で湿っていた。

 女人と覚しき声は庭に生えたすすきの方から聞こえてきた。


 そこに、松永が良く知る女の姿があった。


「なにゆえ...…かような人影のない、さみしげなところに、とのがお出でなされますのか...…」


 幽鬼のように佇んでいたのは、松永が嘗て愛した、今は亡き妻の広橋保子であった。

 黒髪は雨に濡れそぼり顔や身体に張り付き、異様に蒼白い顔に白い経帷子が死者である事を物語っていた。


 松永は亡き愛しい妻との再会を素直に喜べなかった。

 そこにいるのは保子であったが、保子ではなかったからだ。

 ぽっかり空いた真っ暗な眼窩に収まるべき目玉は無く、開いた口の中は血のように紅く舌が無かった。

 こちらに向かって伸ばした指は骨が浮き出る程に痩せ細り、生前優雅に琴を弾いて見せた時の麗しさは微塵も残っていなかった。


 ただただ、悍ましかった。

 愛する者故にこそ、吐き気がする程に悍ましかった。


 別人のように印象が違えども、愛するが故にその者と直ちに分かってしまう悲しさ。

 変わり果てた亡霊の姿でさえ目の前に現れれば心は情で揺れ動く。


 自分に恐怖を与えてくれと確かに言った。


 しかし、しかし──これは──


「止めよ!止めてくれ。頼む、頼む果心……頼む……うっぅぅ……」


 変容した世界には、松永と亡き妻の亡霊のただ二人きりであった。

 梟雄と恐れられる男は泣き崩れ、元の世界に戻してくれと地面に突っ伏し懇願した。

 すると途端に雨は止み心地好い風が吹き抜け、美しい月光に照らされた果心居士が勝ち誇ったように薄ら笑いを浮かべて姿を現し、こう言った。


「如何でございましたか?恐怖を味わって頂けましたか? 」


 松永の背を冷たい汗が流れ落ちた。

 真に恐ろしかったのは、何故初めて会ったばかりの果心居士が、亡き妻の事を知り得たのかという事である。


 その後も松永は、この時の事を思い出す度に、何故果心居士が妻を知り、自分に幻を見せる事が出来たのかと考えを巡らせたのだと云う。

 広橋保子は都の公家、内大臣広橋兼秀の娘で、松永にとっては二度目の妻、保子にとっては二度目の夫であった。


 公家の姫である保子が松永久秀に嫁いだ事は調べれば知る事は出来たであろうし、既に亡くなっている事にしてもそうだろう。


 だが恐怖を与えてくれと頼む事も、どのような幻を見せれば怯えるかも、松永の心の底、それも本人ですら覗いた事のない深い底を盗み見なければ知る事は出来なかった筈だ。


 そう思うからこそ尚、ぞっとしたのだ。


 松永は思った。

 果心居士の真に恐ろしい術は、人心を読む事ではないのか、と。


 人の弱味、邪な欲望、悲しみ、孤独、劣等感等、心の奥底に隠れた負の部分に爪を立て、それを揺さぶられた人々が幻を見るのではないか。


 例えば多数の人間の前で幻術を披露した場合、実は各々が少しずつ違う物を見ているのではないか。


 そんな風に感じたと云う。


 松永は果心居士を拒絶せず寧ろ受け入れようとした。

 そうしたところは流石の器の広さで、敵にするよりも味方にした方が得策と判断したからだ。


「では果心居士は松永殿の元に今もおられるのでございますか? 」


 乱法師は興味深い話しに耳を傾けているうちに、すっかり信長の腕の中に馴染んでいた。


「いや、果心居士は全く自由な男で、姿を消したり現したりと、中々一所に居着かぬそうじゃ。ところが面白い事に松永から話しを聞いた後直ぐに、別の男から果心居士の行方を聞いたのじゃ」


「別の男? 」


「うむ。大和守護の筒井順慶じゃ」


 乱法師は筒井順慶の姿は一度だけ見た事があった。

 頭を丸々と剃り上げ墨染めの衣という丸っきり僧侶にしか見えぬ姿よりも、大和一国の守護を任されるには非常に年が若いという印象の方が強かった。


 筒井順慶が大和守護に任じられたのは昨年、二十八歳の時である。


 大和と聞き『潜る』と言い残し姿を消した射干の顔が浮かんだが、考えて見れば大和は敵国ではないのに郷間として里人に化けて一体何を探るのかと気になった。


「では、その巧みな幻術師は筒井殿の元におられるのですね。私も機会があれば会ってみとうございます。」


 そう口に出した途端、頭の中に紅く光る虹彩が甦り、少し目眩がして気分が悪くなった。


「喜べ!順慶が近々安土に連れてきて、儂の前で珍しい幻術を披露させようと申しておった。無論、そなたも同席致せ」


 信長が嬉しそうに乱法師を見ると、少し眉根を寄せ何かに堪えているような苦しげな表情に気付き、身を案じる。


「どうした?具合でも悪いのか。顔色が優れぬようじゃが」

 

「申し訳ございませぬ。少し目眩が致しましたが一瞬の事で、もう大丈夫でございます」


 


 


 

 


 


 



 





 



 


 


 

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