第3章 呪詛

 禍々しい紅く光る虹彩と腕香の男の記憶は、安土に戻ってからは薄らぎ、乱法師は日常を取り戻していた。


 とはいえ此所は安土、乱世の覇者として君臨する信長が巨大な城を建築中で、諸国からは楽市楽座の城下町で新しい商売を始めようと商人達が続々と集い、都や堺に匹敵する程の賑わいを見せている。


 そのような安土における乱法師の日常は、元々刺激に溢れていた。


「乱、この屏風はそちらへ、此処を片付けて整理し終えたら、上様の御側に行くように」


「は、私だけでございますか? 」


 小姓頭の万見仙千代重元の指示に狼狽する。


「上様の御身の周りにいる者達と交代せよと申しておる」


「承知致しました」


 小姓の仕事は基本、信長の身の周りの世話であるが、日常的な雑務、奉行衆の用を手伝ったり、外出時の護衛と多岐に渡り、ひっくるめれば雑用係りである。


 信長以上に、小姓衆を扱き使う姑息な長谷川秀一のような者も中にはいる為、一日中動き回っても仕事が尽きる事は無かった。  


 実は信長のごく近くに侍る役は、一日のうちで、そう長く割り当てられてはいない。


 小姓衆は全体で百人近くもいて、信長の側に常時侍るのは大変な緊張感を伴う為、交代制になっているからだ。


 雑務を終え、一緒の組の小姓の飯河宮松や久々利亀千代、菅屋角蔵等と共に信長の元に向かう。

 自然な流れで交代して信長の側に侍すと、来月の上洛の日取りと随行人数、長年敵対している摂津石山本願寺の新しい動向への対応が話し合われている真最中だった。


『来月、御上洛されるのか。儂も連れて行って頂けたら良いのじゃが』


 心中でそのように思ったが、百人もいる小姓のうちで新参で末端の己が供に加わるのは流石に無理と諦めていた。

 話しが終わると側近達は退出し、乱法師の組の小姓衆と祐筆の太田牛一、同朋衆のみが側に残った。


「皆、下がれ」


「はっ! 」


 信長が短く命じただけで、その場にいた者達が素早く動いた。


「乱は残れ! 」


 腰を浮かせ掛けていた乱法師は、顔を強張らせその場に座り直した。

 部屋に二人っきりになると胸の鼓動が早まる。


 このような事は『あの夜』以来何度もあった。 

 一度も叱責された事は無いし、少なくとも今のところ『あの夜』以外は極めて優しい主として、気さくに良く話し掛けて貰っている。


 とはいえ、彼の胸が高鳴るのには理由があった。


「近う参れ! 」


「はい...…」


 か細い声で返事をすると、彼の中では精一杯信長に近付いた。


 中腰の儘ささっと移動し、信長と一間(1.8m)程の距離を取って座る。


「近う参れと申したのに何故近くに参らぬのじゃ!」


 そう言われれば仕方なく、遠慮がちに座った儘躙り寄り半間程の距離まで進む。


 乱法師はかなり近いと感じた。

 

「困った奴じゃ! 」


 信長はそう言うと彼の手首を掴み、膝の上に抱き抱えた。

 これも今までに何度かあった事で、「近う参れ」と言われる度に、膝の上に乗せられていた。

 この行為の全てに未だ慣れない。


「昨日は何をしておったのじゃ。此処での暮らしにはもう慣れたか?困った事があれば直ぐに儂に申せ」


 乱法師の躊躇いなど意に介さず肩を抱きながら聞いてくる。


「昨日は都に行っておりました。はい……お陰様で、皆親切に色々と教えて下さいますので今のところ困るような事はございませぬ」


「ほう、都か。今は祇園会であるから人も多かったであろう。上洛は来月を予定しておる故、そなたも供を致せ」


 その言葉に動悸は収まり、ぱっと顔を上げて瞳を輝かせる。


「新参者の私をお連れ下さるなど、光栄に存じまする。」


 心が解れた隙を見逃さず、信長は彼の頭に手を置き、髪を撫でながら己の胸にさりげなく引き寄せた。


「ふふ、そんなに嬉しいか。すっかり都が気に入ってしまったようじゃな。何か面白い見世物でもあったのか? 」


 人の邪な思惑や色事、心の裏側に対して少しぼんやりしたところのある彼は、信長の助平心を悟れず、嬉しそうに昨日の事を話し始めた。


「猿曳きか。そんなに見事な芸であったか。安土にも呼んでみたいものじゃ。いや、いっそ安土に猿小屋を建てさせ住まわせても良いのう」


 目を細め、さも愛しそうな眼差しを注がれると、身体の力が抜けていくのを感じた。

 いつの間にか手を握られ指を絡め愛撫されている事に気付き、はっと身を固くする。


 逃がすまいと、すかさず彼の肩を力強く抱き寄せ信長が言った。


「昨日、松永弾正が参ってのう。面白い男故、会わせてやりたかったな。変わった物を色々持って参った。とは申しても──」


 信長は薄く笑い、そこで言葉を切った。


「私もお会いしとうございました。上様は松永殿のどのようなところを面白いとお感じになられるのでございますか? 」


 すっかり信長の術中に嵌まり、長い睫毛に縁取られた可憐な瞳で熱心に問い掛ける。

 信長の男としての欲望が思わず昂ったが、せっかく打ち解けてきたのを此処で押し倒したら元も子も無いと器の広い主として振る舞う努力を続けた。


「松永は常人では成し得ぬ事を三つもやった男じゃ。一つ目は主殺し、二つ目は将軍殺し、三つ目は大仏焼き討ちじゃ。どうじゃ!凄い男であろう」


 信長は決まって松永の事をこのように語るが、松永からすればそれは誤解だと言い分はあっただろう。

 特に一つ目の主殺しに関しては全く根も葉も無い噂であり、主とは三好長慶とその嫡男義興の事を指している。


 二人の死後、毒殺して主家を乗っ取ろうとしたとの風聞が真しやかに流れた。


 二つ目は三好三人衆が半ば勝手にした事であり、松永の耳にも将軍弑逆の計画は入ってはいたが知らぬ振りをしていた。

 正直、将軍を殺害するなどという大それた企てに関わりたくなかったからだ。 


 しかし二条城を囲んだ軍勢には息子久通も加わっていた為、松永が将軍殺害に一枚噛んでいたという風聞がまた流れてしまったのだ。


 事が起きる度に彼に結び付けられてしまうのは、裏を返せばそれだけ影響力が凄かったからであろう。

 故に梟雄と言われようと身に覚えのない噂が流れようと、努めて気にせず否定しようとも思わなかった。


 だが大仏殿焼き討ちの濡れ衣だけは、未だに納得出来ない。


 東大寺の大仏殿が焼け落ちる直接の要因は、三好三人衆と筒井順慶が東大寺に布陣したからなのだ。

 歴史ある大寺院を戦場に選ぶ方が間違っている。

 そこで戦闘が繰り広げられて寺が無傷でいられる訳がない。


 大仏殿に関して言えば、実際は戦いに因るものではなく、失火に因るものと松永は考えていた。


 焼失のきっかけを作ったのは三好三人衆と筒井順慶なのだから、自分だけが悪く言われるのは心外だった。


 だからと言って、声を大にして反論しないところが彼の良いところだったのかもしれない。


「私には面白い御方というよりも、恐ろしい御方に思えまする」

 

 乱法師は愛らしく首を傾げて言った。


「ふっ確かに怖いもの知らずな所業じゃのう。それ故、弾正に聞いてみたのじゃ」


 乱法師の唇を指でなぞりながら楽しそうに笑い掛ける。

 


 

 

 


 

 


 



 

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