乱法師は益々男に興味を持ち、無邪気に訊ねた。


「言うが通り儂の生まれは…...あっっ! 」


「あっ! 」


 猿曳きと乱法師がほぼ同時に叫んだ。

 腰の辺りにじゃれついていた子猿が、いきなりこうがいを盗んで、素早く小屋の中に逃げ込んだからだ。


 こうがいとは主に髪の乱れを整える物として、男性の場合は腰に差した刀の鍔に取り付けていた日用品である。

 様々な用途に活用出来るが、使い方によっては武器にもなった。

 基本は棒状で持ち手が太く先が細く、反対側の端は小さな匙のようになっていて耳かきとしても使用していたらしい。


 素材は鳥の骨や金属に鼈甲や木材、持ち手には彫刻、蒔絵、螺鈿等、美しい細工が施されている物も数多い。


 乱法師の笄は鼈甲製で、森家の家紋鶴丸と草花が螺鈿細工で散りばめられた、非常に華やかで贅沢な品であった。


 猿曳きは慌てて子猿を追いかけ、乱法師と三郎、藤兵衛も後に続く。

 小屋に入ると、子猿は既に首根っこを掴まれ背中を激しく叩かれていた。


「ギッキキーキキギーキキキキ」


「止めよ!もう良い!良いから離してやるのじゃ! 」


 見た目程激しく折檻されている訳では無いのだろうが、鳴き叫ぶ子猿を憐れに思い、強い口調で男を止めた。

 

「じゃけえ、まっこと御無礼を。こげえ悪さいつもはする奴じゃあなかですが、御武家様の大事なもんを盗むなんて、まっこと申し訳ねえ事で。御優しさは嬉しいけんど、きっちり教えんと。おまはんのような優しい方ばっかりじゃないき。儂が謝るしかない。何と御詫びすりゃええか」


 ともかく狼狽え深々と頭を下げながら、子猿から取り返した笄を乱法師に差し出す。


「もう良いと申した。利口な猿じゃ。見れば分かる。如何に利口とて人の言葉が話せる訳ではない。何か訴えたい事があって斯様な真似をしたのやもしれぬ。おお!いつの間にか、そちの小屋に招かれておるではないか。これは藤吉郎のお陰であるのう」


 乱法師は実はほんの少し猿曳きの小屋の中を覗いて見たかったので、ちょうど良かったとばかりに辺りを見回す。


 森家の邸の一室にさえ満たぬ程の粗末な小屋であったが、身分を忘れた一人の少年の瞳には、見慣れぬ興味深い物が数多く転がっていた。

 猿に芸を仕込むであろう道具を見ては「あれは?これは? 」と男に訊ねる。


「これは何じゃ? 」


 特に目を惹いたある物を指差して興奮気味に問う。

 指差した先には、細い竹の棒に刺さった紙で出来た人形のような物が揺れていた。

 それと同じような物が他にも沢山あり、全部で十以上はあったであろうか。


「御弊のようにも見えるが、斯様な形の物は初めて見る。一体何に使う物なのじゃ? 」


 神社に置かれていたり、神主が振る祓串に似ていなくもない。


「仰せの通り、御弊にごぜえます」


 男は静かに問いに答えた。


「随分変わっておる。だが美しい!しかし良う作ったものじゃ。手先が器用でなくば無理そうじゃな」


 益々興味が沸き繁々と眺める。

 通常の御幣は木の棒の先から左右両脇に、白い長方形の紙が連なり垂れ下がるように折られた単純な形状をしている。


 しかし此処にある御幣は一つとして同じ形のものは無く、切り紙か影絵を思わせる人や動物を明らかに模していた。


 中にはかなり複雑な形の物もあり、戯れに作ってみたのではなく、人から人へと継承されてきた伝統ある技術と思われた。


「これは動物に見える。あっちは人か」


「それは生まれ育った村に伝わる御幣にごぜえます」


 夢中で眺める乱法師に男が声を掛けた。


「そちの生国を聞いていなかったな。それと名も」


 猿の藤吉郎の騒ぎに気を取られ、まだ聞いていなかった事を思い出した。


「へえ!名は六助。生まれは土佐の──」


「土佐の? 」


 男が言い淀んだので先を促す。


 乱法師は日頃から鷹揚として世間知らずなところがある上に、まだ少年で警戒心が薄いのは仕方が無いが、三郎と藤兵衛は護衛として供をしてきたのだ。


 それなのに男の素性も確認せず、小屋の中にまで足を踏み入れている現状に漸く気付いた。


「土佐と言えば長宗我部──まさか、そちは他国の間者ではあるまいな」


 伊集院藤兵衛が慌てて問い質す。


「藤兵衛、長宗我部の領地の土佐から来たのであれば、そんなに怖い顔をする事も無かろう。織田家と同盟を結んでおる相手ではないか」


 人形の御幣に触れながら、常よりも更に鷹揚とした口振りで藤兵衛を嗜めた。


 三郎は皆のやり取りを聞きながら、不思議な感覚に囚われていた。

 この小屋に足を踏み入れた瞬間から守られているような、妙な居心地の良さを感じ、警戒心や緊張感を保てずにいるのだ。


 六助の持つ和やかで親しみ易い雰囲気。

 子猿達の人懐っこさ。


 詰問した藤兵衛とて、怪しい者ではないと本能的に受け入れてしまっている。

 

「土佐からでは遠かったであろう。何故都に来たのじゃ。そのような事を聞くのも愚かであろうか。世は乱れ、戦を逃れて移り住む者達は数多おるからのう」


 乱法師は問いかけながら、先程とは別の御幣を愛撫するように指で触れていた。

 大層寛いだ様子で、腕香の芸を見た後の、青褪めていた時とは大違いだった。


 少なくとも、この小屋に居て主の気分が良くなった事だけは確かであるから、三郎は一先ず警戒を解いた。


 改めて小屋を見回すと、周囲の壁の天井近くを伝うようにぐるりと縄が張り巡らしてあるのに気付いた。


「儂の郷では御幣をこがに作って祀るんです。何にもねえ山ばっかりのとこで、人と獣が一緒に住んじゅーようなとこで育った。やきぃ戦なんて、ずーっと山奥におったら知らん儘でござったろうなあ」


「土佐の何と言う所じゃ」


物部村ものぺむらゆう小さな村です。若様が御行きなさる事は先ずもって無いろう。昔々、平家の落ちう人が源氏の追う手から逃げて隠れ住んだあいう話しはあるけんど」


「物部村? 」


 余程気に入ってしまったのか、まだ御幣に手を触れた儘だ。


「六助、そちは物部村では神官であったのではないか? 」


 三郎が疑問を口にする。


「神官……いいや。儂の村では太夫言うが儂は太夫でもないです」


「物部村、聞いた事も無いが、わざわざ都まで来たのには疚しい訳でもあるのか?郷を捨てるのは戦から逃れる為か或いは商い、修業、間者。そのどれかじゃ。そちからは怪しい気配は感じぬが、どうにも解せぬ」


「三郎、もう良い。怪しい気配を感じぬならば怪しい者ではないのであろう。詰問するような事は致すな。村の事を一言で説明するのは難しいのであろう。都に来た訳は人それぞれじゃ。今日会ったばかりであるのに、根掘り葉掘り聞くのもどうか。怪しい者ではない。それで良いではないか」


 乱法師は相変わらず、おっとりとした物言いで三郎を宥めた。


「蛇?乱法師様が触れている御幣は蛇なのか? 」


 小屋を見回していた藤兵衛が、突然口を挟んだ。


「へえ!それは蛇おんたつの御幣にごぜえます。こっちで言うなら雄の蛇神さんの事です。儂等の村ではたーくさん神さんがおるき」


「へび……」


 乱法師の顔が一瞬僅かに歪んだが、直ぐに元の穏やかな表情に戻り、指先で蛇おんたつの御幣にそっと触れた。


「蛇だけじゃのう、そっちの角が生えたのは龍で水神様でございます。龍に見えんかも知れんけんど、腕がにょろにょろ長いがが水神おんたつでございます」


「そちが切ったのか。手先が器用なのじゃな。そういえば儂の名乗りがまだであった。儂は美濃の金山城主、森武蔵守の弟、森乱法師と申す。ここにおるのは家臣の伊集院藤兵衛と武藤三郎である。安土の信長公の小姓として先月出仕したばかりじゃ」


「別に隠すつもりはないんがです。ただ何から言うてええのか、会うたばっかりの身分の高い御方に...…あれ?森武蔵守?どっかで聞いたような。どこで聞いたんやか……」


 何かが六助の記憶に引っ掛かり、必死に首を捻る。


「あっ!あっあー鬼武蔵!瀬田の唐橋と公方様の関所破りの!あんたぁ、鬼武蔵の弟か? 」


「無礼者!あんたとは何じゃ!あんたとは!」


 伊集院藤兵衛が怒鳴ると六助は怯え、長閑に遊んでいた子猿達は一斉に恐慌状態に陥り、きいきい鳴き叫び始めた。


「止めよ!猿達が怯えておるではないか。六助、怒鳴ったりして済まなかった。猿達を鎮めてくれぬか?鬼武蔵は確かに兄であるが、そちまで兄の事を存知ておるとは……」


「申し訳ござらん。ご無礼を──しっかし、おまはんのような弟君なら、恐ろしい噂聞いちょったけんど、兄君は本当はお優しい方なんでございましょいな。済まん事やった」


「いや、兄は噂通りの人間である」


 乱法師は力強く否定した。


「へ、へえ……」


 六助はじゃれついてきた藤吉郎の頭を撫でて居心地の悪さを凌いだ。


「ともかく猿回しは見事であった。いつか安土にも参れ。それに、この小屋に居ると不思議と心が落ち着く。いや、落ち着くというよりも、心身が浄められ真に気分が良い。この変わった形の御幣には何か力があるようじゃな。もう少し話していたいが、そろそろ戻らねばならぬ。六助、邪魔をした」


「は、はあ……その……」


 六助は何かを言おうとしたが口ごもった。


「キキキっキキキィーーキキキ」


 藤吉郎が激しく鳴き叫ぶ。


「別れを惜しんでくれておるのか。何と利口な猿じゃ。また来る。六助、藤吉郎、それではのう」


「へ、へえお気をつけて……」


 六助の最後の言葉は深い意味を含んでいたのだが、普通の別れの挨拶と受け止め小屋を後にした。


 安土に向けて馬を駆る。

 突如、馬上で揺れる乱法師の頭の中で不気味な声が響いた。


『やれ……やれ……絆は切れなかった……』


 背筋を寒気が走り、手綱を握る手が緩み危うく落馬しそうになる。


「乱法師様!! 」


 三郎と藤兵衛が慌てて馬を止め駆け寄る。


「大事無い。大丈夫じゃ。妙な幻聴に動じただけじゃ。さあ、安土まで急ごう」


 気を取り直して馬を駆ったが、脳裏には紅く光る虹彩の記憶がまざまざと甦っていた。


 




 

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