弱々しく乱法師の方に顔を向け、彼に手渡した小刀で蛇を退治してくれと芝居じみた声音で懇願する。


「どうかく、る、し、い……その刀でどうか、蛇を...…蛇を退治して下され...…」


 今や蛇ははっきりと具現化し、ぬめぬめとした漆黒の鱗に、鋭い牙の生えた口の中は、まるで獲物を喰らった後のような生々しい血の色をしていた。

 男も蛇も、この世の物とは思えぬ禍々しさで、吐き気が込み上げてくる。


『嫌じゃ──』


 心の内で強く拒んだ。


 すると再び男の瞳が真紅に光ったように見え、意思とは関係無く手に持った小刀を突き出し、勝手に足が前へと進んで行く。


 群衆達には面白い見世物、半ばやらせと思う者、不気味な蛇と若衆の対決を固唾を飲んで見守る大半の者達からは、進んで蛇に向かっているようにしか見えなかった。


 男にぎりぎりまで近付くと、前に突き出した小刀は蛇に勢い良くぐさりと突き刺さった。

 更に身体ごとぶつかり、男に抱き付くように力を込めて深く刺し入れる。


 男がにたりと笑うと、唇の端から下へと細い血の筋が浮いた。

 刀を蛇に刺した儘、呆然とする乱法師を強く抱き寄せ耳に囁く。


「これで繋がった──」


 男の言葉で身体を縛っていた何かから解放されたように震えが走り、我に返ると小刀を蛇から引き抜き後退る。


 荒く息を吐きながら男を見ると、着物の胸と腹辺りに真っ赤な血がべっとり付いていた。

 口から血泡を吹き、男がゆっくりと後ろに倒れていく。


 群衆は皆青褪め、乱法師は罪の無い者を殺めてしまったのではと激しく動揺した。


 すると暫くして、刺されて地面にだらりと伸びていた蛇から煙が立ち上り元の黒煙と化すと、男の身体を全て包み込んだ。


 惨劇が隠され少し冷静さを取り戻した群衆がどよめく。

 黒煙が徐々に薄れ消え去ると、そこに何事も無かったかのように男が手を広げ立っていた。

 着物に付いていた赤い血痕は跡形も無く消え失せ、腕の傷も塞がり全て元通りである。


 夢でも見たのかと目を擦り、暫し皆が口を開けた儘呆然としていたが、やがて喝采と大きな拍手が湧き起こった。


「蛇は一体何処に消えたんや。こないなおもろい芸は都でも初めて見るで」


「こら幻か?真に人の仕業か?なんか仕掛けがあるなら知りたいもんや」


「次はどないな手妻を見してくれるのかのう」


 都人達は口々に男を褒め称え、次も次もとねだった。


 しかし男は要望には応えず、淡々と道具を布に包むや、早々と引き揚げの準備をし始めた。


 期待を込めて残っていた都人達も、素っ気ない態度に次は無いものと諦め徐々に散り、男自身も道具を背負い、乱法師には目もくれず、その場から立ち去った。


「乱法師様いかがされましたか?あの者に何か」


 未だぼおっとして顔色は紙のように白く、現に戻れずにいる主の様子を案じて三郎が声を掛ける。


「何もされてはおらぬ。ともかく此処は暑い」


 三郎の言葉で我に返り、慌てて首を振る。


「ならば若!飯屋に入って一先ず休みましょうぞ。腹も減って参りましたし」


 そのような訳で、都に数多ある飯屋の中でも、小座敷のある洒落た店に入る事となった。

 夏の京らしいはもや、精の付く鰻、山芋の冷や汁、さっぱりとした蕪の漬け物に麦飯、雅やかで愛らしい花の形の菓子。


 井戸から汲んだばかりの冷たい水で喉を潤すと瞳は生き生きと、頬に血色が戻った。


「ふう、鱧は旨かった」


 乱法師は大盛りで四杯も麦飯を食べた後、さも満足そうに呟く。

 細身の体躯ながら育ち盛りも手伝って、中々の食いっぷりの主を見て、三郎も藤兵衛も漸く安堵した。


「それにしても世の中は広うございますな。儂のように老いていても、あのような手妻は生まれて初めて目に致しまする」


「蛇が大きな口を開き牙を剥いた時には肝が冷えましたぞ。見事に退治されたと見えましたが、幻だったという事でございましょうか。実に生々しく真に生きているようでございましたな。如何なる修行を積めば、あのような術を身に付ける事が出来るのか。同じ人とは思えず些か恐ろしゅうございます」


 二人が口々に言い交わすのを乱法師は黙って聞いていた。


「蛇? 」


 何かがおかしかった。


 二人が話している内容は理解出来るし、先程まで世にも不思議な辻芸を見ていた事も記憶している。

 なのに肝心な事が思い出せず、黒い煙で隠されているように霞んでいた。


『そういえば、どのような蛇であったか……先程の事なのに何故思い出せぬ?儂は一体何をしていたのか』


 大まかな記憶はあるのに細部を思い出そうとした途端、霞掛かりぼやけてしまう。

 何色の蛇だったかというだけでなく、腕香の男の着物、顔立ち、己が蛇に対し具体的に何をしたか思い出せない。


 蛇がどうやって現れ消滅したのかも。


 囁かれた記憶はあるのに、何を言われたか思い出せないのは奇妙でもどかしかった。


 但し、紅く光る虹彩。


 炎と言うよりも血のような赤さで獣を思わせる獰猛な瞳。


 その瞳だけが異常な程鮮明に脳裏に焼き付いており、頭に浮かぶ度に身体が強張ってしまう。


 手妻自体には目を奪われ畏怖さえ覚えたが、全てが釈然とせず言い様の無い不快感だけが残ってしまった。


 一向は堀川通りの飯屋を出ると、引き続き通りに並ぶ様々な店で、異国の物や珍しい品を見つけては興じた。


 都の出入り口である粟田口を目指しながら歩いて行くと、二条通りの一角に人だかりが出来ていた。


 どうやら、また辻芸の類のようである。


 好奇心旺盛で天真爛漫な日頃の乱法師ならば直ぐに首を伸ばすところ、一瞬躊躇した。

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