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彼は肝心の事が分かっていなかった。
あの信長に、か弱い抵抗など通じる訳が無い事を。
せっかくの非番故、都に行こうと考えていたのを思い出し、武藤三郎と傅役の伊集院藤兵衛を急いで呼んだ。
──
三郎に注意され、生絹の下に白の小袖を身に付け、陽避けに笠ではなく華やかな紫の衣を被ぐ。
夏にしては然程陽射しは強くなかったが、少し蒸し暑い日であった。
瀬田の唐橋を馬で渡り都大路に入ると、ちょうど祇園祭の真最中なので安土の城下町とはまた違う賑わいを見せ、派手な暖簾や看板を掲げた店が並び、若い好奇心が騒ぐ。
道に水を柄杓で撒く都人の姿や朝顔の花が夏に雅な趣を添える。
軒先や店の中に飾られている射干(檜扇)の花に目を止めた。
橙色の檜扇は、古より悪霊を祓うのに用いられたと伝わる。
祇園祭もまた悪霊を鎮める為に始まったとか。
祇園祭は現代にも続く京の夏の風物詩だが、その長い祭りに欠かせなかったのが、射干、別名檜扇の花であった。
所々で見掛ける度に、大和に潜ると姿を消した彼女の事が頭に浮かぶ。
その名の通り、無事に戻って来てくれる事を願った。
森家御用達の反物屋や茶道具、器を取り扱う店、武具の修理屋等に顔を出し、世間話に興じた後は、御所を中心に碁盤の目のように交わる通りで催される様々な辻芸を楽しむ。
放下師と呼ばれる大道芸人による品玉(玉や刀を上に投げて掴む)、曲独楽(色々な物の上で独楽を回して見せる)、恵比寿回し(首から吊り下げた箱の中で恵比寿人形を舞わせる)、
乱法師が特に目を丸くしたのは
本来は腕を火で焼く荒行の事だが、大道芸としては腕に刀を刺して見せたり、刀を口から呑み込んだり、危険を伴う技で人を驚かせるものをいう。
実際に刺している者達は、あまり痛みを感じないようなコツがあるか特異体質かのどちらかだろう。
真に痛そうな素振りをして見せると女子は目を背け、男達は眉をしかめながらも見入ってしまう。
乱法師も瞬きを忘れ目を奪われた。
腕香の芸人と目が合ったようなと感じた、その直後、彼を見て確かに、にたりと笑ったのだ。
身体が反射的にびくっと強張る。
芸人の瞳は良く見ると色彩がかなり薄く、バテレンの瞳を思わせた。
頭には天竺の物と思われる布を巻きつけ、身に付けている着物は日本の物のようでもあり異国風でもあった。
『この国の者ではないのか? 』
少し薄気味悪さを覚えた。
気のせいではない。
人混みの中、男は確かに乱法師を見ていた。
ぞっと膚が粟立つのを感じたが、何故か視線を逸らす事が出来ない。
男はゆるりと青白い右手を上げると彼に向かって手招きした。
『嫌じゃ、行きとうない.…..』
そう強く思った刹那、男の瞳の虹彩が一瞬紅く光ったように見えた。
「乱法師様」
主の異変に気付き随行の二人が声を掛ける。
しかし言い様の無い薄気味悪さを感じ拒絶したのに、不快と思う気持ちは薄れ、自然に足が前に出た。
三郎と藤兵衛が止めるのも聞かず、いつの間にか腕香の男の前に立っていた。
「これはこれは、何と美しい若衆じゃ」
発せられた男の声は見た目以上に不気味で、ねっとりと耳に残り、ある種の興奮で震えていた。
「皆々、これから披露する芸は、こちらの若衆の御力が必要じゃ!さっさ、これを手に御持ち下され」
そう言うと乱法師の手を掴み、先程まで己の腕を傷付けていた小刀を半ば無理矢理握らせた。
男の手は湿り気があり、異常な程冷たかった。
例えるならば、蛇に触れた時のような。
全身から醸し出す異様さこそが、特殊な芸を披露する者には却って似つかわしく、人目を惹き付けるのに一役買っているようだ。
雰囲気、道具立て、話し方、人混みの中から美しい若衆姿の乱法師を呼び寄せ、これから何が行われるのかと囲んで見ている都人達の期待を煽り高めていく。
三郎と藤兵衛は主の身をひたすら案じたが、二人共何かに縛られたように動けなかった。
男は右手に小刀を持ち、いきなり己の腕をざくりと切り裂いた。
血が流れ滴り落ちるのを見て、女達ははっと驚き被衣で口元を覆う。
鮮血を京枡で受け止め、そこに得体の知れない黒い粉を振り掛けると、男は口の中で呪文をぶつぶつと唱えた。
暫くして血と怪しげな黒い粉の混合物が入った京枡から、黒い煙が細く立ち昇り始めた。
乱法師は手に持った小刀を強く握り締め、膨れ上がる黒い煙の軌跡を追う。
黒煙は男の周りをぐるぐると回り、やがてそれは徐々に蛇の形を成し、男の身体に巻き付き、乱法師に向かって真っ赤な口を開け牙を剥いた。
女達の悲鳴と男達からも恐怖の呻き声が上がる。
蛇の太さは男の二の腕程はあろうか。
己自身で呼び出しておきながら、男は身体を締め付けられ苦しそうに額に脂汗を滲ませていた。
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