目の前に立つ女は、彼の良く知る伴家のくの一射干に間違いなかった。

 但し余りにも日頃の印象とは掛け離れたその姿に思わず目を見張る。


「若、あっはあはは!何だい、その格好。くく……いきなり書物を読んで目覚めちまったのかい? 」


「その格好?そちこそ何じゃ!その格好は! 」


 艶やかで卑猥な色香は陰を潜め、そこにいるのは確かに射干の顔をしていながら、全く化粧っ気も無く、三、四人は子供がいそうな少しくたびれた年増の百姓女だった。


 服装や身のこなしで、これ程化けるものか。


 男達の視線を釘付けにする豊満な胸さえ、良く乳が出そうだなというくらいの関心しか惹かぬであろう見事な化けっぷりだった。


 まじまじと見詰めてしまったが、はっと大事な事に気付いた。

 

 先程まで読んでいた書物を片手にぶら下げ、淫らな絵図があからさまに射干に向けて開かれている事に。

 慌てて書物を閉じて後ろに隠す様子は少し子供じみて可愛らしかった。


「お前はいつから...…そこにいた」


 その場の気まずさを取り繕おうと聞かない方が良い事をつい聞いてしまう。


「うーん?武藤三郎が、若が手に持ってる本を置きに来た時かな」


 そう言い意地悪くにたりと笑った。


 乱法師の身体から力が一気に抜け、その場にへたり込む。


「お前は、いつも!儂の事を常に見張っているのではなかろうな! 」


「うーん、若の事は心配でも流石にいつも見張っていやあしないよ。くの一の勘ってやつで、隠し事を探るのが得意なのさ!疚しい事が心にあると自然に態度に出るだろ?何か変だなーって思ったら──くく、やっぱり……」


 着ている生絹の小袖だけでなく心中も透け透けな乱法師は、射干からすれば何もかもお見通しだった。


「実はさ!別にお楽しみを邪魔しに来たんじゃなくて、御別れを言いに来たのさ」


 極めて純粋で無垢な若君を、これ以上からかい弄ぶのも気の毒と思い、笑いを噛み殺し話題を変える。


「え……別れ? 」


 少し顔が陰る。


「暫くあたしは潜る。太郎左様の御命令でね」


 表情を変えずに簡潔に告げた。


「何処に? 」


「──大和」


 その言葉で合点がいった。

 射干は元々大和の出身である。

 つまり郷間。 

 その郷の者を使い、その土地を探る。

 

 如何に優れた忍びでも、土地ごとに独特の訛りがあった時代において、それを習得し自然に話すのは困難だっただろう。

 その土地で生まれ、その土地で死んで行く者は数多いた。


 それでも大和ならば各地から入り込んだ様々な身分の余所者が比較的多い土地であったろうから、然程怪しまれずには済んだのかもしれない。


 乱法師は、それ以上は追及しなかった。


 森家と伴一族との関わりからすれば、彼の依頼で伴家の者を動かす事は可能だ。


 だが大和を探るのは織田家、つまり信長からの指令と考えるなら、立場は新参の小姓に過ぎない。

 いくら頻繁に優しく声を掛けられたとて、軍事や政の密談が交わされる席に居る事を許される程の存在ではない。


 射干が居なくなった後、男色の本を握り締め溜め息がまた洩れた。

 何をしているんだろう。


 ただの小姓から才を見出だされ側近として重用される者は確かに多い。


 但し自分は信長の側にいつまでもいて、彼等のように出世したい訳ではない。

 それに、たった一度閨に召されたくらいで周りから寵童だの、贔屓されているだのと陰口を叩かれるのは不快でならなかった。


 但し自分は信長の側にいつまでもいて、彼等のように側近として出世したい訳ではない。

 それに、たった一度閨に召されたくらいで周りから寵童だの、贔屓されているだのと陰口を叩かれるのは不快でならなかった。


  側にいるだけで、非常に英邁な名君というのが伝わってくるし、戯れ言混じりで優しい言葉を掛けてくる砕けた態度に親しみが日増しに湧いてくる。


 戦場を駆け回り勇名を馳せる武将から見れば小姓など雑用係に過ぎず、主に危険が迫った時の盾くらいにしか思われていないかもしれない。

 なれど未熟な自分は小姓として侍る他無く、覚悟を決めて出仕した以上誰よりも有能な小姓でありたかった。


 そもそも有能な小姓とは──

 日の本一の武将なら分かりやすいが、日の本一の小姓として名を馳せるとしたら、それは一体どんな小姓なのだろうか。


 そんな事を考えていたら、つい可笑しくなってきた。


 生涯小姓でいる者などおらず、基本的に年若い者が多い職務なのだから、吏僚として重用されるか馬廻り衆として取り立てられるか、人質として置かれていた者達は不要と判断されれば国許に帰ったり限られた間だけ近侍する者もいる。


 森家の名に恥じぬよう出来る限り真面目に勤め、様々な事を精一杯学んで金山に帰れば良いのだ。


 彼はそう考え、胸に抱き締めた男色本を思い出し顔を赤くした。


「良い小姓とは求められたら応じるものなのか、抗うものなのか」

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