第2章 執着

 朝餉を済ませ房楊枝で丁寧に歯の掃除をしながら庭に下りると、先ず青紫色の朝顔が目に入った。

 

 まめに侍女が水遣りをしていたのは知っていたが、近頃の暑さで萎んだように見えていたのに、中々朝顔とはしぶといものなのだと乱法師は感心した。


 朝顔の花は牽牛子けんごしの異名を持ち、その種子は古より漢方薬としての効能を認められてきた。


 牽牛子と名付けられたのは、あまりにも高額で、種子を手に入れた者は牛を牽いて謝礼としたからだと伝わる。


 さぞかし万病に効き大病もたちどころに治す特効薬なのかと思いきや、ただの下剤である。


 牛一頭と引き換えにして手に入れたい程切実な便秘だったのかと考えてしまうが、体内に溜まった毒素を排出する事は健康には重要であるから、間接的効果で病が良くなると珍重されたのかもしれない。


 本日は非番なので、のんびりと朝顔の花の数を数えた後は口を漱ぎ、水を浴びた後、居室に向かう。


 やはり夏は生絹すずし(夏用の透け感のある着物)が軽くて心地良い。

 生糸織りの張り感を楽しみながら、部屋に用意されていた生絹の小袖に手を通した。


「今日は何処に行こうか──」


 安土に来てから一月程、見るもの聞くもの全てが目新しい。


 一日を無駄に過ごすつもりはなかった。


 安土の城下町もゆっくり散策したいが、都や堺にも足を伸ばしてみたい。

 都ならば瀬田の唐橋を渡れば行って帰って来れない距離ではないなと、長閑のどかに扇子で扇ぎながら考えていた。


「乱法師様、三郎にございます」


 故郷の美濃金山から小姓役として随行した森家の重臣武藤兼友の倅の三郎が、障子の外から声を掛けた。


「入れ」


 乱法師の応えに障子がすっと開く。


「こちらが例の御依頼の品でございます。首尾良く手に入りました」


 武藤三郎は懐に手を入れると重々しく書物を取り出し畳の上に置いた。


「む──」


 乱法師の顔は一瞬強張り短く返したのみで、ろくに三郎の方を見ようとしない。


 逆に三郎は俯いていた顔を上げ、主の姿を見てぎょっとした。


 身に付けた生絹すずしの着物は青藍色で、飛翔する意匠化された小さな鶴の形がいくつも肩や袖の袂、裾に擦り箔で華麗に表現されている。

 生絹とは透け感のある織物で、如何に夏とはいえ、下に何も身に付けなければ肌が露に見えてしまう。

 

 ところが乱法師は、下に何も身に付けていなかった。


 青藍の濃さが白い肌を却って際立たせ、艶かしい事この上ない。

 狼狽える三郎の様子にも気付かず、少し顔を赤らめ暑い暑いと扇子でしきりに扇いでいる。


 暑いから扇いでいるのではない事は、置かれた書物に時折ちらちらと視線が泳ぐ所作からも一目瞭然だった。


 森家に属する者達は皆、乱法師の気性を良く弁えている。

 金山城にいた頃から利発であるのに鷹揚として、非常に気が回ると思いきや何処か抜けている憎めない性格だと。


 大抵の者は彼の美しい容姿と大らかな気性に毒気を抜かれてしまうが、一歩外に出れば何処もかしこも未だ治まらぬ戦場なのだ。


 麗らかな春風のような風情でのんびりといられよう筈もないが、そのような乱法師を守りたいと思う男達が数多いる事は確かだ。


 主の白い胸と生々しい腰の線から目を逸らして思った。


『上様の御手が付いて良かった──』


 その一事で全てが丸く収まり、何の憂慮も無くなるかと言えば嘘になる。


 取り分け幼くして父を失った兄弟にとって、信長の庇護を得る事は非常に重い意味を持つ。


 戦国時代ならば領地没収、江戸時代ならば改易と言えば分かりやすいだろうか。

 謀叛や大きな失態の罪が無くとも、跡継ぎがいない、家督を継ぐには幼な過ぎる、ともかく難癖を付けて領地を減らされたり没収されるのも珍しくなかった事を思えば、美濃の金山城という要地を乱法師の兄、長可が十三才で継ぐ事を許されたのは、まだ良心的と言えただろう。


 しかし森兄弟の父、可成が守った城、近江の宇左山城を継ぐ事は許されず、代わって明智光秀が入り廃城となり、代わりに坂本城が建てられた。


 信長の為に討ち死にした忠臣の遺児。


 数多の家臣が信長の天下統一事業の途上で老いも若きも戦場の露と消えていった。


 戦に出れば討ち死には当たり前。

 それを『主の為に戦い討ち死にした』と捉えて貰えるか、単に『失敗して討ち死にした』と思われるか。


 何れにせよ死が日常であり過ぎた時代では、『主の為に討ち死にした忠臣の息子』などという肩書きが通用するのは僅かな間だけだ。


 若い長可は力を見せなければならなかった。

 それも並みではない力をだ。


 弱冠十七才の時、長島一向一揆勢との戦いで単身舟で敵陣に乗り込み、二十七もの首級を上げてみせた。


 弟の乱法師の美貌は、兄弟が一人前の武将として成長する迄の猶予を更に延ばす強力な武器となるだろう。


 信長とて天下人である前に一人の男なのだから、当然閨の相手を求める。


 乱法師の容姿が単に好みだったからだとしても、そうした種類の寵愛により、後ろ楯を無くした兄弟への庇護が強まるのは間違いない。


 手柄を立てても失態を犯しても、同衾相手の家臣に対しては無意識のうちに見方が甘くなる。


 ただし権力者の床を温める者達は他にいくらでもいる為、容姿端麗で房術に長けているだけでは抜きん出る事は出来ないだろう。


 閨の相手として選んだ大勢の中の一人というだけ。

 ならばあくまでも未熟な間は寵童として目を掛けて貰えると割り切り、長ずるまでに能力を磨いていけば良い。


 今のところ呑気な主の口から聞く限りでは、耳を疑う程信長に優しくして貰っているそうなのだから。

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