出仕する前は緊張で息をするのも苦しかったが、朋輩達の変わらぬ様子に安堵し、雑用に追われて身体を動かしているうちに、いつの間にか憂鬱は消え去っていた。

 こんな事なら家で臥せってなどおらずに早く出仕していれば良かったと気持ちが上向く。


「森お乱、お乱はおるか? 」


 信長の用に備え、数名の小姓達と控えの間で待機していた時、側近の青山虎松に名を呼ばれた。


「はい!此処に」


「上様が御呼びである。直ちに参れ! 」


 爽やかに返事をしたまでは良かったが、『上様が御呼び』と聞き、俄に表情が曇る。


 今すぐ森邸に駆け戻り、衾を再び引き被りたい気分になったが、青山に急かされ信長が待つ部屋に向かうしかなかった。

 信長に名指しで呼ばれ、心に疚しい事がある年端もいかぬ少年にしては勇敢な方であろう。


 青山は部屋の前まで来ると、声を掛け襖を開ける。


 開けた直後に見えた部屋の中には、祐筆や万見重元、長谷川秀一等、数名の側近達と、見間違いようが無い信長の姿があった。


「貴様等は皆下がっていよ」


 その言葉は誰よりも乱法師を震え上がらせた。

 胸の鼓動は否応無く高鳴り、耳に響くくらい己の内では大きく感じられた。

 部屋にいた全員がさっさと退出し、あっという間に広い部屋で二人きりになる。


「乱、近う。もっと近う参れ」


 言われて遠慮がちに俯いた儘、中腰で五歩ぐらい何とか進んでみたが、それでも部屋はまだ広かった。

 再び近くに来いと命じるのを面倒に思った信長の方から近付いてきて、彼にしては随分優しい声音で語り掛けた。


「大事ないか? 」


「はい、もうすっかり良くなりましてございます」


「それは良かった」


 俯いた顔は緊張しているようには見えたが、意外としっかりとした声で、あまり悪びれずに答える彼を見て信長は安堵した。

 行儀よく手を付き、座している彼の姿を改めて繁々と眺める。


『このような感じであったか。今少し、あの夜は──』


 と、あの夜の記憶を掘り起こす。

 抱かれながら儚げに喘ぐ彼の姿は実に艶かしく、男の欲望を煽る事この上なかった。

 それが今目の前にいる少年は、こじんまりと大人しく真に素直で幼く見えた。


「何処まで行ってきた? 」


 乱法師の顔がさっと青褪める。

 

「金山か?家族には会えたか? 」


 彼を責めるつもりは無かった。

 だが不意打ちをくらい咄嗟に取り繕う事も出来ず、桑名の湊に行っていた事を正直に白状した。


 信長は全く責める素振りを見せず耳を傾けながら優しく知識を授け、あっという間に乱法師の心の構えを解いてしまう。

 桑名の話しが一段落した後、沈黙が流れた。

 乱法師の指が父の形見の刀の鍔に触れたり首の辺りや口元をさ迷い、目に見えてそわそわし始める。

 それを察し信長は声を掛けた。


「少し痩せたのではないか?ちゃんと食べておったのか? 」


 初夜の行為に衝撃を受けたのが桑名まで逃げた大半の原因と承知していた。

 優しく問われ乱法師は信長の顔を見上げたが、まともに視線が合うと慌てて目を伏せてしまう。


「はい!沢山食べておりました。桑名では握り飯を4個も」


「うっくく、では大丈夫そうじゃな」

 

 正直に答え過ぎたと顔を赤らめて後悔する彼に信長は笑った。


「だが、青山虎に申した事は戯れ言ではない。不調があれば、真に曲直瀬道三に見て貰った方が良い故、遠慮無く儂に申せ! 」


「私のような役立たずの新参者に名医を御遣わし頂くなど勿体無き事にございまする。今後、上様に御心配を掛けるような事が無いよう努めて身を慎みまする」


 乱法師は心の奥深くを信長に摘ままれたような不思議な感覚に襲われた。

 それは痛みではなく、どちらかというと甘く心地好く、音に例えると「きゅん」という感じだった。


 その後、すっかり打ち解け部屋を辞して小姓部屋に戻る途中で何度も首を傾げた。

 今まで一緒にいた信長は、彼が慣れ親しみ始めている粗野だが内に優しさを秘めた敬愛すべき主の姿であった。

 荒々しい信長にまた変化してしまったらという不安がちらりと胸を過る。


『まさか何か妖かしに取り憑かれて、それであの様な……』


 初心な彼らしい事を考えながら、織田家の家紋を象った五つ木瓜の小姓部屋の襖の引き手に手を掛けた時──


「....随分甘い...何故...」


 中から潜めた声が聞こえてきたので、一瞬手を止め耳を澄ませる。


「四日も休んで抜け抜けと...しおらしい顔をして...結構図々しい...」


「半人前の癖に...上様の御気持ちを惹くのだけは……仕事よりも…褥...覚えるのが早い...くくく」


 途切れ途切れでも、流石に己に対する悪意ある会話と察した。


 裏ではこのように悪口を言っていたのかと胸が痛んだ。


「...上様直々に...久しぶりの出仕であるから…普通に接し...乱に厳しい事は...言われたらしい」


「特別扱い、やりにくい」


 だが次の会話を耳にして、胸の奥が柔らかく指で摘ままれたように甘く切ない気持ちが再び込み上げ、そっと部屋の前を離れた。


───


「久しぶりじゃのう。暫く見なかったが何処にいた?不思議な技を使い都の辻で人々を騒がせたというのはもしやそなたか? 」


 頭を丸々と剃り上げ、鈍色の生絹すずし直綴じきとつ(僧侶が普段着用する衣)に斜め掛けの五条袈裟という僧侶の出で立ちである。


「確かに仰せの通り、名も姿も変え、都でほんの少し遊んで参りました。その後、信貴山にちと顔を出し、旧知の御方と四方山話しなぞ」


「信貴山じゃと?」


 始めに問いを発した者は険しい顔をして相手を一瞬睨んだ。

 が、直ぐに冷静な表情に戻り呟くように言った。


「松永弾正か」


 此処は大和の国の筒井城、僧侶にしか見えぬ者の名は筒井順慶と言う。 

 昨年の天正四年に織田信長より大和の守護に任命されていた。

 筒井氏は元を辿れば大和を支配する興福寺の有力な宗徒であった。

 自衛や宗派同士の勢力争いで武装し、過激な一大兵力として、やがて武士化する者が現れ、そのうちの一派として台頭した。

 


 




 



 


 



 


 


 


 


 

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