男女共に同衾の経験が無いにも関わらず、しかも相手は天下人信長という恐ろしい初夜の記憶は動揺し過ぎて途切れ途切れではあったが、時折印象強い行為の数々が甦ると今でも身体が震えてくる。


 金山で耳にした噂とは異なり、優しい御方じゃと親しみ始めていた矢先の荒々しい振る舞いに、すっかり心は萎え萎み、手酷い罰を受けたかのような心持ちで落ち込んでしまった。


 曲直瀬道三の名前と信長自ら見舞いに訪れるという、勿体無いような半ば脅しのような言葉に、明日出仕すると返答してしまったものの、考えると気分が滅入り、また溜め息を吐いた。


「はあ...…」


「ん? 」


 溜め息が心無しか己の声とは違うように感じたので、もう一度吐いてみる。


「はあ......」


「うっふふあっは、はーーあぁひい……ははははあーー可愛い! 」


 凄い笑い声が天井から降って来た。

 上を向き見慣れた顔と目が合うと、乱法師はうんざりした表情になる。


射干しゃが、またお前か……何故いつもそんな所から顔を出す?襖を開けて普通に入って来れぬのか? 」


「くく、しょうがないだろう?くの一なんだからさ」


 射干しゃがと呼ばれた女は、組天井と書院の長押なげしや鴨居に器用に足や手を引っ掛け、悪びれずに笑いながら下に飛び下りた。


「忍びが皆そうな訳ではないだろう。いつも妙な所から顔を出すのはお前くらいじゃ!さっきの話しも聞いていたのか? 」


 女は甲賀忍び五十三家の一つ、伴家のくの一で射干しゃがと言う。


 森家と伴家は非常に親密な仲で、父の可成の生前に余程恩義を感じるような出来事でもあったのか、まるで家臣のように度々力を貸してくれている。


 通常、忍びとは金で雇われて働く謂わば傭兵なので、何処かの大名に属している訳ではない。

 但し能力を買われ、家臣として取り立てられ、結果として大名にまで出世する者もいる事はいた。


 よって伴家は森家の家臣ではないが、織田家の今や御抱え忍びとして諜報活動を行っている。

 森家が臣従を誓う織田家に力を貸す事は、自然な成り行きであった。


 射干とは別名檜扇ひおうぎと呼ばれ、夏に咲く橙色の鮮やかな花だ。


 真に色っぽい女である。


 名前の通り、射干の種子、烏羽玉ぬばたまの如き黒髪を高々と結い上げ、白い脚を惜し気も無く太股の辺りまで露にしている。


 紅梅色の裾の短い帷子の下には何も身に付けていないのではないかと思う程扇情的な出で立ちだが、勿論そこに穿くべき物は穿いていた。


 歳の頃は一見、二十歳を越えた辺り。


 くの一というだけあって、着物や髪型、化粧や振る舞いで、それこそ乱法師と同じ年頃の未通娘おぼこに化けて見せる事も出来る、当に変幻自在の女性にょしょうなのだ。

 という事は逆に、無害な老婆に化ける場合もある為、実際いくつなのかというのは謎だった。


 いずれにせよ露な太股だけでなく、滑々とした紅唇に、少し吊り上がった目は常に妖しく物憂げで、簡素な帷子に覆われた身体は実に旨そうな肉付きをしていた。


 特に胸の豊かな膨らみに男達の視線は大抵釘付けになってしまう。

 並みの男で射干に目を引かれぬ者は恐らくいないであろう。


 故に己の魅力を存分に役立ててきたのは言うまでもない。


「明日からまた出仕する気になったって事だろ?話しを聞いてた限りじゃさ!あっはは! 」


「う……やはり聞いていたのか。人の話しを盗み聞きするなど何と下賎な! 」


 乱法師は顔を赤らめ、眉をしかめて詰った。


 男というには明らかに未熟な彼が、色香より圧倒されるのは、人生経験豊富な大人の女性の言動や振る舞いに対してなのだ。


「下賎って言われたって、第一母親なんかいたのは確かってだけで、父親てておやなんざ、何処の誰だか分かりゃあしないあたしに言ってんのかい? 」


 伴家の忍びと言ったところで正確には血族な訳ではない。

 くの一として育てられる女にまともな出自の者がいよう筈もなく、身に危険が迫れば武器や火器も用いるが、専ら使うのは女の武器と相場が決まっている。


 それ故くの一は孤児ばかりで、幼い頃の記憶では、大和の国の武家であった父が戦で討死し、残された母親は遠い縁戚を頼りに近江に移り住んだものの、結局生計たつきの為には遊女紛いの生業で何とか凌ぐ他なかった。


 子供を育てながら、やっとの日々の暮らしで心身が疲弊し、床に伏せってから亡くなるまでは、朧気な記憶によるとあっという間だった。


 幼い兄弟達と道端で物乞いや、商売のような事をしていたような覚えもあるが、そんな時に伴家の者に拾われたのだ。

 と、このような本人ですら曖昧な卑しい生い立ちを乱法師に自ら語った事は無い。


 無邪気な顔で聞いてくるのを適当にあしらい嘘ばかり吐いていたら、父は天狗、母は狐だと未だに信じている世間知らずな鷹揚さに時々呆れてしまう。


 数々の男達を手玉に取ってきた彼女からすれば、乱法師の悩みも彼自身もまるでひよっ子で、弟、いや男ですらなく、姫君のようにか弱い存在に思え、全くどっちが男か分かったものではなかった。


「ずっと伏せっていたから心配してやっていたのさ。第一何で臥せっているのか、あたしにはとんと理解出来ないがねぇ」




 

 


 

 



 

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