第2話

〈電車〉

「………………………………精神だ」

 呟いた声が反響しない私の耳は塞がれている……手摺りから…………手先から腕を経ず…………空気越しに頭に殴りかかる………………脳内物質が切り替わる…………周りの存在が遠くなる……………………五センチ浮いた気分だ……………………私の内部に集中する…………二回目……………………ぼわーとやはり……………………内部…………内部……内部……………………内部と外部…………………………外部…………胃よ鎮まれ…………ここでは……他にも人がいる………………見たことある奴らも……………………また始まるのかよ…………鼻の奥に力を入れて……抑えたくても………………別世界に飛ばされる……………………………………青空の下………………手を取られるような気がして…………見えない場所に吸い込まれる………………陽射しに運ばれていた私達は………………………………暗闇の中を突き進む…………………………半年前を思い起こさせる車内が……再現される…………今も変わりない………………そこには私以外にあの三人……………………登校する毎度のこと…………くすくす聞こえる………………話しかけてるのか……………………分からないけど………………………………くすくす…………くす……くす……くす……くすくす……くす……くす…………くす…………くすくす………………くす…………くす…………くす……くす………………くすくす…………あいつ……とか……それ……とか…………誰のことか…………………………気にしないことが最善…………………………答えたら火に油だと思った…………………………精神は思い出させた………………今こうしていることも………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ふぅ………………………………落ち着いてきた。

 手摺りをぎゅりっと握りなおして主導権のある方の自我を取り戻す。取り乱してごめんなさいと気付きもしない乗客に向き直る。気分悪く登校していたその最中にも襲われるとはね。家を出る前に予約した不快感はしっかり内在的な恐怖体験を齎した。このように私の吐き気は一日一回のみにあらず大抵二、三回はアンコールされる。家なら手軽な生理現象もストリートでは通用しないのが厄介だ。社会の腐敗臭に付き纏われる駅員さんも大変だろうし、せめてトイレで吐きたいものだ。

 負けん気が吐き気に勝ったとしても、残滓の充満はしばらく続く。たった今バランスを取ろうとした手足にも精神の片鱗が生える。この不安定な状態で、目の前の生活まで不安定な非正規雇用者に仮に刺されても抵抗できないだろうナイーブさを誇る。

 この発作は何も頭で完結する訳ではない。身体、状況も含めた全体から感じるのだ。些細なこと、例えば今窓ガラスを引っ掻くとしたらそのガラスという物質、または引っ掻くという行為に纏わる認識や歴史が回帰したように表面から内側を蝕む。しかし意識を持っていかれるから思い出に残そうにも言葉で描写し難く、出来たとしても一言二言に留まり、その内容も直後に忘れてしまう。夢にも似たしかし確かな現実だと勝手に思う。的確な感覚は一瞬しか伝えられないのだ。常に新体験を味わえる大不人気アトラクションと言える。

 世界広しと言えど、これは私にしか訪れないのだろうか。他人は世界の端々から精神の存在を感じているのかな。普段は精神の起伏のない、血も涙もない性質を案じて天から贈られた私特有の感覚なのか。悩みを共有できるタイプの現象と違ってそれを確かめる術はない。私としてはありふれた不穏な日常でも、外観は奇怪な振る舞いに見て取れるだろう。

 だが無くなって欲しいとは思っていないのだ。現実を脅かす都合の悪いことは夢心地のまま流した方が良いし、この先も様々な出会いに溢れているだろうけど、吐き気に比べれば全ての程度が低く思えるから。手摺りの奥から私を指差してきても関係ないことだと割り切れる。吐き気のお陰で……あれ、逆だったっけ。取り敢えず電車は正しい方向に向かっている。降りないのは私の理性が機能しているからだろうな。人生に必要なのはやはり適切な判断力だ。吐き気を喉に押し込むくらいのね。車内に咲き乱れる噂話を聞き流すくらいの。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る