月一の嘔吐姫
沈黙静寂
第1話
〈リビング〉
「精神を感じる!精神を感じる!」
月初めだっていうのに頭の中枢からゆっくりとそして奇天烈に吐き気がやってきた。落としていた精神が舞い踊ってきた。きたきた、きたよ、きた。朝からしかもこのタイミングで。ぼろわぁ。目の前のコップ一杯は何処か。今回は上から順調に握っていた箸まで充満すると、今度はそのまま誰かに旋毛を引っ張られる感覚で別の空間が展開され、十秒前いた場所からリニューアルされた土地、しかしリフォームする前の同じ我家がそこにあるのだ。焦点の当たる部分以外は暗く誤魔化された。ここでも何度かお目にかかっているけど、案の定変わらない椅子に座る母親と、いなくなったはずの男が食卓を囲む。その外観を終えたら私は余った席に座っていて、正面には男。見たくない顔がにんまり主張しており、続いて箸の持ち方がなってないと怒鳴りつけ、ごめんなさいと誰かが言っているのを勘違いしたのか、平手打ち、平手打ち、に留まらず正拳の殴打のよう。左右に大きく映像が乱れる出来損ないの中継。
一分過ぎたところで意識が定着し、前に広がるリビングはあるべき姿だった。吐き気の残り香で食欲は元々ないけど散り散りになったって感じだ。テーブルマナーを弁えず口から漏れたのは吐き気の感想だけで、先程箸で運んだ卵を皿に還すまでには礼儀知らずではなかった。気が行動に移りやすい食事中、今後に響く朝なんて全く時間帯に恵まれないな、吐き気に恵まれた私は評した。
この吐き気は月に一度、一日から二日、長くて三、四日にかけて私に顔を見せにくる。これまで通り月半ばに来る傾向を未だに当てにしていて油断があった。かつては半年に一度、三カ月に一度といったペース管理ができていたが、近年になって毎月になり今では胃の底から下克上する生き物の残骸を宥めるコツさえ掴み、儚く直ぐには吐かなくなった。代わりと言っては何でだよ、だが特に最近は周期が不規則な上に、吐き気がすると大方その後何処かに引っ張られる感覚に陥る。これも成長と捉えて前向きに生きていこうか検討する次第。
これほど達観しているのに思春期だからか、思春期なのに達観しているからか、何の関係もないのか、兎に角吐き気の原因は分からない。幼少期に目覚めて以来、催すことは平凡な生活リズムだと思っていたが少し違うらしいことを知った。病院に行かされた時も的外れな薬を渡されるだけで効きやしなかったから今は何の処理も施していない。大体死に侵されるような状態ではないし、他人と摩擦を起こさない限りありのままの私で悪いことなんてないだろ。擦れたところで変わらないけどな。
吐き気には訪れる前、僅かな兆候があり心の準備と食道を引き締める猶予をくれるから昨日猫騙しされたような驚きはない。強いて言うなら時と場所を選ばないこの現象の奔放さには何の意味もなく予想を裏切られてばかりだ。一応言っておくと、自律神経が乱れているのか私は猫の手より身近な不随意筋も借りることができてしまう。その気になればあるいはその気を極めれば、心臓だって止められるかもしれない。結局その一線の前まで来ると恐怖のストッパーが理性を止めてしまうが。何がどう因果してようと所詮曖昧な感覚の世界において私が明らかにしていないことはまだ多い。
「ご馳走さま」の意はいくら捻くれていても解釈できない私の感想に、辛うじて仕事をしていた視界の舞台で、母親は今朝の朝刊を丸めたような顔をしてくれた。健全な顔つきは自分で読めるようになったから。既に少しは考えが変わった私の頭も、何を言っているかは頭蓋骨の奥まで浸透してこない。いつものです、とは汲み取ってくれるだろうと虚空を見つめる素振りでうんうん頷くことでやり過ごす。ここでは曲がりなりにも家族がいるから一人ではない。偉そうに孤独を感じることもできない。感じるのは日々から溢れる怒りくらいでそれも消さなきゃいけないようで。それが道理ってものだ。この現実は頭を使って必死に耐えるしかない。という訳で丸まった母親は置いといて、催した後は全身が倦怠感に抱かれるのも相まって、朝食はこれで止めにした。
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