水たまり
吉田ヒグラシ
水たまり
三つのランドセルが少年の足取りを重くしていた。一つは背中に、二つは折り曲げた腕のそれぞれに引っ掛けて、一歩を踏み出すたびに脚にぶつかる。肩ベルトが擦れて腕が赤くなっていた。持ち主はもうずっと先まで行ってしまったようで、辺りに人の気配はない。三本の傘を腕に掛けているが、雨はすっかりあがって、遥か頭上にはどこまで行っても青い空が広がっていた。遠くでキジが鳴いた。細くたなびく白い雲さえ少年を今にも追い越そうとしていた。からっとした太陽に照らされて、両側を畑に囲まれたアスファルトは陽炎に包まれていた。温かくも冷たくもない湿ったそよ風が少年の汗ばんだ首筋をなでた。雨が降っているときは半袖で寒いくらいだったのに、太陽が出たとたんに夏になった。
先の砂利道に水たまりができていた。空をその小さな体いっぱいに蓄えている。さながらぐんぐん乾いていく舗装道路を避けてゆっくり一休みといった感じである。向こうの林は深い緑をたたえ、奥は暗く陰になっている。少年は立ち入ったことがない。体を揺すって背負い直すと、ランドセルと背中の間を汗がひやりと一筋流れた。
飛行機の軌跡が長い雲となって空を二つに裂いていく。畑の向こうに民家が数軒並んでいるが、どれも少年の家ではない。あそこに見える赤茶の屋根の家に住んでいたら、どんなにか楽だったろう。それでも学校から特段近いわけではないが、運動神経の良い子どもなら一息に走れそうな距離である。少年の帰り道はまだ終わりが見えない。
一本の電柱の横を通り過ぎ、脚を前に出した瞬間、ランドセルが腕を滑り落ちた。重心が傾き、片足が浮いた。少年は両手の荷物を放る格好で前のめりになった。倒れる先に水たまりが見え、とっさに目をつむった。冷たい水面が顔を打った。しかし鼻が底にぶつかることはなかった。
少年はじっとしていた。水の感触は火照った頬に心地よく、このまま息を止めていれば、身体の熱を水たまりが全て吸い取ってくれそうだった。ふと何かが頬を擦った。少年はそっと目を開いた。
透明の小さな袋がいくつも漂っている。中の短い赤クレヨンは命の証拠だと、彼は直感的に理解した。ふわふわと浮いているものもあれば、ぴょんと跳ねるようなのもいた。
天使みたい。
多くの人間がそれを形容するときに使うのと同じ言葉が、彼の頭にも浮かんだ。袋たちの群れの中に一つ、黒いボールの入ったさらに小さな袋が同じような動きをしていた。天使の頭がクパッと割れてそれを捕らえた。しばらく身体をくねらせて、悠々と泳ぐ他の袋たちとは明らかに異なる動きをしていた。
光の届かないほど深くから、あぶくがコポコポと軽やかな音を立てて上ってきた。その正体が気体であることを習っていないにも関わらず、何かが息をしているのだと彼には分かった。そのまま水たまりに腕を入れ、身体をよじって肩まで沈めた。肩ベルトのせいで動かしづらい腕を使って水をかいた。全身を水中に沈めると、袋たちを蹴ってしまわないように静かに脚を動かした。こちらのほうが塩素の香るプールより何倍も清浄なように思われた。潜るほどに辺りを漂う袋の数はぽつりぽつりと少なくなっていった。底があるとするなら、それは彼らも訪れないような暗い場所らしかった。
背後でランドセルの開く気配がした。理科のノート、30cm定規、道徳の教科書、筆箱やケースに入ったリコーダーが次々に出ていった。そのかわりに空洞は水で満たされた。保護者に渡すようにと帰りの会で担任に言われた集金袋は、彼の脚が生んだ水流によってどこかへと運ばれていった。それまで彼の身体で遮られていた日光がチラリと射し込み、奥のほうに目のようなものが見えた。
水たまり 吉田ヒグラシ @yoshida-higurashi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます