三月二十六日 楽聖忌(ベートヴェンの命日)

 おそらくクラシック音楽界で最も顔が知られている音楽家——ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。

 J.S.バッハ、ヨハネス・ブラームスと並んでドイツ「三大B」と称され、またフランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと並んで「ウィーン古典派三大巨匠」の一角をも担う有名過ぎる音楽家が亡くなった日。


 文政十年(一八二七年)三月二十六日、五十六歳の時のことだそうだ。

 直接の死因は肝硬変だとされている。

(日本では激動の幕末期。シーボルトが来日して禁制品かき集めて幕府に超怒られて国外強制退去させられたりしていた頃だよ)


 楽聖とは極めて優れた音楽家の尊称だが、日本では主にベートーヴェンの代名詞として用いられている。


 ドイツ西部(当時は神聖ローマ帝国)、ライン川にまたがるケルンのボン市街地がベートーヴェンの生まれ故郷だ。

 ボンといえば、東西ドイツ時代には西ドイツの首都として機能していた大都市である。つまりルートヴィヒは生粋のシティーボーイというわけだ。


 ベートーヴェン家はケルン選帝侯のお抱え宮廷音楽家という立場で、父親は宮廷専属のテノール歌手であったという。

 だからルートヴィヒも当然のように幼少の頃から音楽英才教育を受けて育つのだが、これが虐待レベルのスパルタ教育だったという……(歌手なのに親父さんは酒乱気味の大酒飲みだったらしいよ)


 ルートヴィヒ少年は小さい頃から好き嫌いが割とキッパリしていた。

 勉強は大嫌いだったようだが読書は好きで、親父さんのスパルタ教育はさておき鍵盤楽器(当時はオルガンやクラヴィーアが主流だった)には何時間でも没頭していたようである。

 そして十歳前後で初めて作曲した自身の楽曲は、手の小さい子供ではとても弾きこなせないようなシロモノだったという。


 この頃師事したのがクリスティアン・G・ネーフェだった(この人も十二歳前後で作曲しちゃった天才だったよ)。幼少期に良き理解者に恵まれたことも後々のルートヴィヒを楽聖たらしめた一因だろう。


 二十一歳になったルートヴィヒは寛政四年(一七九二年)、ハイドンにその才能を認められて弟子となりオーストリア、ウィーンに拠点を移すことになる。

(ベートーヴェンがオーストリアの音楽家かドイツの音楽家か論争が両国間で勃発するのは、ご当地あるある)


 ベートーヴェンが生涯に作曲し、公に発表している楽曲数は一三八曲にも及ぶという。

 十歳から五十六歳までのおよそ四十五年間で割ると一年あたり三曲強のペースで新作を世に送り出している計算になる。

 ベートーヴェンの楽曲で最も長いとされている交響曲第九番(いわゆる第九)などはCD一枚にギリ収まる(おおよそ七十五分くらい)とされているので、現代曲のリリースペースと比較するのはまあまあフェアじゃないかもしれない。


 そして、ベートーヴェンといえば難聴だったことも有名だが、時系列を辿るとどうやらハイドンに師事した二十歳頃から徐々にその傾向はあったようで、三十歳になる頃にはほとんど聴力を失っていたという。

 原因は様々言われているが、当時巷に流行していた安物ワインに含有されていた鉛化合物の大量摂取(ルートヴィヒも酒好きだったらしいよ)によるもの説や、異常なまでの楽曲集中力を長時間発揮することで脳内に異常なストレスホルモンが蓄積し、それが聴覚に影響を及ぼしたとする説等、真偽のほどは定かではないが可能性はゼロじゃないという逸話が、ちらほらあったりなかったりする。

(一説には毎朝飲むコーヒー豆の数まで厳密に定めているほど神経質だったとも言われてるよ)


 世に残した楽曲の功績で、ベートーヴェンの葬儀には二万人もの人々が詰めかけたと言われているが、実際に楽曲提供されていたお貴族様方は軒並み葬儀をブッチしたという逸話もあったりなかったりする。

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