三月十五日 日本で初めて西洋靴の工場ができた日
明治維新以降、急速に進んだ西洋化によって日本でもじわじわと洋装が浸透していった。当時はそのほとんどを輸入に頼っていたそうだが、次第に自前で作り始めることになる。
(一説によると、かの鹿鳴館に打ち集っていた貴婦人方のドレスは「舶来モノ高いから〜」という理由で自分たちで手作りするようになったとか何とか)
しかし、靴となると、そう簡単にはいかなかった。
そもそも靴作りに必要な木型も材料も製法も、従来の日本の履き物とは全く異なっていたのだから仕方ない。引き続き輸入に頼る日々だったのだが、明治政府の推進する富国強兵政策で軍備の西洋化が進められる中、日本の軍人さんが世界の片隅で需要を叫んだ。
「助けてください! 誰か、自分たちの足に合う軍靴を作ってください!(訓練どころじゃねえわ、バカヤロー)」
日本人よりも体格の良い欧米人の履き物だ、足の形もサイズも異なる西洋靴は成人男子といえども日本人の足には大概合わなかった。
(縦が長くて幅は狭いという海外靴サイズ感あるある)
当時、兵部省大輔(いわゆる国防省次官みたいな役職)を務めていた偉い軍人さんが、とある貿易商に泣きついたところ、断れないナニカを察した貿易商は国産靴の製造に乗り出すことになった。
明治三年(一八七〇年)二月、とりまスイス領事に靴製造に必要な機械やら備品やら材料やらサンプル品なんかを発注し、東京築地の入船町に靴工場をでっかくオープンさせたのが、同年三月十五日のことだったという。
早速、香港で腕の良いミシン縫製家とドイツから製革技師をヘッドハンティングしてきて国産軍靴第一号の開発に着手するのである。
翌年には工場を築地から向島に移して、さらに横浜に在留していたオランダ人職人を引き抜いてきて、国産靴のクオリティは飛躍的に向上したそうだ。
このメーカーの屋号を「伊勢勝造靴場」と言うのだが、現在の「リーガル」の出発点がここである。
王道の革靴からカジュアルラインまで様々だが、ど定番フォーマル靴として押さえておいてまず間違いない老舗ブランドだ。
余談だが、軍靴や乗馬ブーツなどを手掛けてきた豊富な実績から、戦後は自衛隊向け半長靴の製造納入なども引き続き賄っていたりする文武両道メーカーである。
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