三月九日 寺田屋事件(龍馬危機一髪)が発生した日
旧暦では慶応二年(一八六六年)一月二十三日(新暦三月九日)、京都の薩摩藩定宿で坂本龍馬が襲撃された日。俗に「寺田屋事件」と呼ばれる暗殺未遂事件だ。
現在も京都市伏見区に保存されている「寺田屋」には、当時のものとされる柱に残された刀傷や、龍馬の妻が襲撃直前に浸かっていたとされる風呂などが見学できるそうだが、実はこの建物自体が明治時代になってから再現されたレプリカだったりする。
(もっとも、それでも築百年を超えているので立派な古民家ではあるが、生粋の京都の人なら多分鼻で笑う築浅物件扱いだろう)
戊辰戦争の始まりとされる鳥羽伏見の戦いで激戦区となったのが、このあたり一帯なのだが、その際、オリジナル建築は戦火で焼失してしまったという。
で、ちょっと西側の空いてるところに再建されたのが現在の「寺田屋」というわけだ。
それはさておき、歴史上「寺田屋事件」と呼ばれる刃傷沙汰は二回起きている。
一回目は文久二年(一八六二年)に起こった薩摩藩士同士の殺し合いで、寺田屋は天井から畳から血塗れにされてしまっている。その後、薩摩藩から「迷惑かけてごめんね、ごめんね〜」と見舞金が送られているのだが、その金で内装リフォームをして営業再開している逞しい宿屋である。
その四年後に起きたのが、龍馬暗殺未遂事件として有名な「寺田屋事件(二回目)」である。
龍馬が幕府からロックオンされていたのは、先立って薩長同盟を成立させたことが大きな要因とされている。
少し歴史を読み返すと、時期的に長州藩と幕府の折り合いが悪くなっていた頃ではあるのだが、積極的幕府打倒オラオラ勢というよりは「今の幕府、ないわ〜。今のやり方、まじ無いわ〜」という消極的アンチという雰囲気が九州地方にやんわり浸透していた。
同時に、薩摩藩は薩摩藩で「生麦事件(薩摩藩のお殿様が江戸から下るパレードに、キャッキャうふふの能天気観光外国勢が乗馬スタイルで突っ込んで無礼打ちされた事件)」での幕府の対応に不信感を募らせまくっていた。
犯人処すを繰り返す外国勢(主に俺様有頂天ブリ天様)から薩摩藩を庇うでも仲裁するでもなくソッポ向いてしまった幕府の対応の不味さ故に、この後、ブリ天艦隊が鹿児島湾にカチコミをかけてきて薩英戦争が勃発する事態を招いていた。
そんな情勢で仮に長州が幕府にシバキ倒されてしまったら、「絶対次、俺らの番やんな!」と薩英戦争で疲弊していた薩摩は危機感を募らせていた。
九州二大勢力がごちゃごちゃしたら、周辺の藩も漏れなく荒れる。
それでなくても日本中が荒れていた(主に外国勢のせいで)。
「Youたち同盟結んじゃいなYo!」
そこにレッミーシー・オーライ♪という感じでイエス高須クリニックしてきたのが四国、土佐藩出身の坂本龍馬氏である。
(最近は、薩長同盟締結はむしろ龍馬より中岡慎太郎の功績の方がデカいという研究内容を発表している学者もいるとかいないとか)
九州二大勢力が消極的アンチから、とりま幕府シバキ隊になったことで「あいつ無いわ〜。まじ何してくれたん !?」とロックオンされた龍馬氏である。
それで、何やかんやで薩摩藩の計らいで京都の定宿に潜伏していたところを襲われたというのが寺田屋事件の経緯だとされている。
龍馬の写真が腕を隠したスタイルで撮影されているのも、この時の襲撃で負った怪我を隠すためだとする説があるが、真相は定かではない。
辛くも寺田屋での襲撃から逃げおおせた龍馬は、薩摩藩邸からの救援部隊が間に合って生き延び、そのまま奥さんと船で九州(霧島温泉)まで一時退却しているのだが、それを後世「新婚旅行」などと表現していたりする。
(間違っていないが、やはり間違っていると思う筆者は多分捻くれている)
龍馬が命を落とす「池田屋事件」が起きたのは、この翌年の話である。
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