二月二十五日 モハメド・アリが世界ヘビー級王者になった日

 不利な体格差をものともせず、「蝶のように舞い蜂のように刺す」の名言を産んだ世紀の試合(WBA・WBC統一世界ヘビー級マッチ)が行われたのは、昭和三十九年(一九六四年)二月二十五日のことである。


 プロに転向してからわずか四年後、この時は生まれの本名であるカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアとしてリングに上がり、試合後、改めた名前がモハメド・アリだ。

 イギリスとアイルランドの血を引くアフリカ系アメリカ人という、なかなかに複雑な背景を持つカシアスが改名した経緯は、当時アメリカ国内で活動していたアフリカ系アメリカ人コミュニティーが主となるイスラムコミュニティーの思想に共感したからだとされている。

 本家イスラムの教義とは少々解釈を異にするため、厳密にはイスラム系新興宗教と捉えてもあながち間違いではない団体だった。

(その後、本人の意思でイスラム教スンニ派に改めて改宗している)


 そんなカシアス少年が、ボクシングを始めるきっかけとなった出来事が幼少期にある。

 誕生日に買ってもらった大事な自転車を盗まれた事件を機に、警察から「ボクシング(いざという時、鉄拳制裁可)やらん?」と誘われたという。


 誘い文句からしてNGワードが見え隠れしているが、何にせよその警官のツテで始めたボクシングで、カシアスはメキメキ才能を開花させていった。

 ジムに通い始めて八週間でアマチュアデビューし、初戦で判定とはいえ勝ち星を上げると、やはりメキメキと実力を付けていった。

(他にも後々世界チャンピオンになるボクサーを輩出しているので、ジムとしては優良だったということだろう)


 そして戦後の昭和三十五年(一九六〇年)に開催されたローマオリンピックで十八歳のアマチュアボクサーとして出場し、ライトヘビー級で金メダルを獲ってしまう快挙を達成してプロへと転向する。

 この時の金メダルの扱いについては諸説あるが、どうやら紛失したという点は間違いないようである。


 後世残されている試合記録にまつわるアレコレを見ていると、「煽り散らかして鼓舞するスタイル」と言えそうだ。

「蝶のように〜」もそうだが、試合前から「何ラウンドで倒す」とかそういう煽りパフォーマンス(ある意味、有言実行とも言える)が、ちょいちょい逸話として残っている。

 プロはエンタメ性も求められるということか。

 もちろん勝つこともあれば負けることもあるのが勝負事だが、最終的には三度の王者奪還と十九度の防衛戦を制しているわけで、レジェンドと表現して申し分ないと思う。


 ヘビー級はとりあえず重量級ボクサーの力技タコ殴り合戦だった従来の戦法に、軽いフットワークと鋭いジャブを取り入れたスタイルもアリ初だったりするので、ある意味パイオニアであったとも言える。

 そんなレジェンドも不遇を味わったのが当時のアメリカ社会の闇でもある。

 現在よりも余程顕著だった社会の根底に蔓延る黒人差別主義、そしてベトナム戦争反対の意思表示で徴兵拒否を表明したことによる社会的制裁等——王者タイトルの剥奪や試合出場停止処分、果ては泥沼の裁判なんかも経験している一連の騒動は「リング外の戦い」と俗称されていたりする。


 そんな王者も引退後は試合で殴られ続けた後遺症と推察されているパーキンソン病を患い二〇一六年に七十四歳で亡くなるまで長く闘病したようである(直接の死因は敗血症だったとされている)。


 余談だが、昭和五十一年(一九七六年)にアントニオ猪木と異種格闘技マッチをした際は三十四歳前後だったはずなので、デカい試合(一九七四年VSフォアマン戦)を終えた後とはいえまだまだ試合を控える現役中だったことになる(引退は四十歳あたり)。

 何かと物議を醸した世紀の一戦であったが、それが彼らの後々まで続く友好の一戦であったこともまた事実である。

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