二月十二日 菜の花忌(司馬遼太郎の命日)
カクヨムに身を置く以上、無視をしてはいけない日、その二十四。
昭和から平成にかけて活躍した現代を代表する文豪、司馬遼太郎(本名、福田定一)の命日。
同氏の愛花が菜の花だったことに因んで菜の花忌と呼ばれている。
例年、この日に司馬遼太郎賞の授賞式を東大阪市にある同氏の記念館で行っているという。今年も行われるそうだが、第二部のシンポジウムは無観客で行う予定らしい。世知辛いコロナ禍である。
歴史小説からエッセイに至るまで多岐に渡る同氏の作品は、度々映画化などもされていてご存じの方も多いと思う。
私が小遣いを貯めて初めて買った同氏の作品は、短編歴史小説「新撰組血風録(中公文庫)」だった。ちょうどテレビドラマとのタイアップで新装版が出た頃だったかと思う。
(因みに、角川文庫からも二〇〇三年に更なる新装版として出版されている)
幼少期から読書好きだが勉学はあまり好きではなかった一方で、
しかし、戦時中の学徒出陣を経験してからは考え方が少しずつ変わっていったようだ。戦前の日本史を題材にした作品が多いのも、おそらくは戦争を経験したが故の歴史懐古なのだろうと思わせる節がある。
戦後、新聞記者として働く中で各地の取材を通して本人の創作意欲は沸々と高まっていったが、実際に文筆家として本格的に執筆を始めるのは昭和三十年代に入ってからだったりする。
下地は十分に培っていたから、ここから怒涛の作品発表と受賞の快進撃を続けることになる。
昭和三十一年(一九五五年)のエッセイを皮切りに、翌年には初めての小説「ペルシャの幻術師」で第八回講談倶楽部賞を受賞し、五年後には「梟の城」で第四十二回直木賞を受賞する破竹の勢いで伸びていく。
更に二年後には、こんにち司馬遼太郎といえばパッと思いつく「龍馬がゆく」や「燃えよ剣」などの代表作をばんばか執筆して不動の地位を築いているのだから流石である。この人も間違いなく湯水のように創作アイディアが湧くタイプの作家なのだろうと思う。
傍ら、エッセイも変わらずに執筆しており、昭和四十年代後半からはライフワークとなった「街道をゆく」シリーズを開始し、密かに進行していた病を抱えながらも最期まで精力的に取材と連載を続けていた、ある種の遺作となっている。
平成八年(一九九六年)二月十日に取材を終えてシリーズエッセイを執筆中に吐血して倒れ病院へ運ばれる。
二日後、二月十二日。腹部大動脈瘤破裂が原因で、七十二歳の生涯を終えることになった。
エッセイから始まった同氏の作家人生は、やはりエッセイで終わったのだと思うと、改めて感慨深いものがある。
司馬遼太郎賞が設けられたのは、亡くなった翌年、財団の発足と時を同じくしてのことだ。
その授賞式が行われる記念館は、同氏の自宅の隣に建てられている。
コロナ明けの際には、是非足を運んでみてはいかがだろうか。
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