二月九日 漫画の日(手塚治虫の命日)
カクヨムに身を置く以上、無視をしてはいけない日、その二十三。
戦後日本のストーリー漫画界の神様、手塚治虫の命日。
進行の早いスキルス性の胃癌による肝臓および全身への転移が直接の原因とされているが、死の間際、闘病中のベッドの上で最期まで「仕事をさせてくれ」と訴えていたという逸話には脱帽である。
平成元年(一九八九年)二月九日、享年六十歳。
当時、百歳まで描くとインタビューに答え、バーゲンセールのようにアイディアが湧くと述べていた氏は、今頃天国で未発表作品を描き続けているのだろうか。
鉄腕アトム、リボンの騎士、ジャングル大帝等々ヒット作をバンバン飛ばしていた印象のある手塚治虫にも、スランプ時期があったというのは意外でもある。「やけっぱちのマリア」「アポロの歌」あたりが低迷期に当たる作品とされているが、この頃の氏は自身が経営していた商社やプロダクション(虫プロ)の倒産時期とも重なり、莫大な借金を抱えたりと苦労に苦労を重ねていた極寒期だった。
もっとも、本人には「描きたいアイディア」が湯水のように湧いていたわけだから、世間の評価が氏の作品を「古い」と一蹴して軽んじていたというのが実情だったりするのだろう。
時代を反映した作風でも知られる氏の漫画ジャンルと作画テーマの守備範囲の広さは正直エグい域に達していると思う。
本当に同一人物が描いたのかと思うほど多岐に渡るのだから、幅広い世代に認知支持されるのも納得というものだ。
さて、日本における一番最初のストーリー漫画(の原型)と呼ばれている絵巻物がある。
それが皆さまご存知「鳥獣戯画」だとされている。
セリフこそないが、小動物を擬人化し、時系列を追ってキャラクターの動きが表現されているという点で、一般的な「絵画」とは一線を画しているというわけだ。
昔から、日本人は擬人化好きだったんだなあ……もはや「GIJINKA」という言葉がそのまま世界共通語にならないかと考えている筆者である。
漫画というと日本のサブカルチャーという図式が今でこそ成り立っているが、日本で一番最初に漫画雑誌を創刊したのは、イギリス人だったりする。
幕末期、文久二年(一八六二年)横浜の外国人居留地内で発売された風刺コミック「ジャパン・パンチ」がそれである。
イギリス本家の「パンチ」の日本版という感じだが、明治二十年(一八八七年)まで続いたそうだ。
ざっくりとした内容は、日本の生活を揶揄するものや日本政府批判だったというから本誌の原本を見てみたい。これが後々の日本の文明開花に多大な影響を与えたという。
後継雑誌として「滑稽新聞(明治三十四年創刊)」や「東京パック(明治三十八年創刊)」子ども向け漫画の「少年パック」などが作風を踏襲していき、それが現代に続く日本の漫画文化の定礎という位置づけらしい。
そして、これらの雑誌の創刊に携わった人物たち(ジャーナリストや著作者等)が巡り巡って昭和三年(一九二八年)生まれの手塚治虫に影響を与えていたのだという。
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