一月二十三日 八甲田山雪中行軍遭難事件が起こった日

 日本史上最も多くの犠牲者を出し、世界的に見ても近代登山史上最も遭難死亡者を出した大惨事が発生したのは、明治三十五年(一九〇二年)一月二十三日のことである。


 先立って日清戦争時、過酷な寒冷地での戦闘に苦戦を強いられた日本なのだが、その時「手に入れられるはずだった」遼東半島やそれに伴う賠償金について、イギリスを始めとする欧州各国とロシアの介入によって頓挫した。

 その上、ロシアがちゃっかり遼東半島に不凍港を租借したことで一気に VS ロシアの緊張状態となった日本は、更なる寒冷極寒地慣れした敵を想定した戦闘訓練が緊急課題となった。


 そこで、青森県において仮にロシア軍が八戸周辺に上陸し国道を始めとする主な輸送路が攻撃されて使えなくなった場合を想定し、八甲田山を越えて物資輸送や救援が可能かを検証するのが主な目的で、総勢二一〇名からなる行軍が計画される。

 現在の県立青森高校が建つ場所、そこにはかつて旧日本陸軍第八師団歩兵第五連隊の本部兵舎があった。

 この第五連隊が、悪名高い「八甲田雪中行軍」を決行し、訓練で壊滅した部隊である。


 事前の準備不足、物資の不足、雪山訓練の経験不足、妙な軍隊系精神論——後世、色々と不備を検証されているが、悪いことが悪いタイミングで天災と人災両方がっちり重なったが故の大惨事だった。

 当時の青森を含む東北、北海道地方は、日本史上最低気温を記録した大寒波に見舞われていた。

 ひとたび猛吹雪ともなれば気温マイナス四十度Cを下回り、体感温度はマイナス五十度Cにもなったという。


 そんな中、第一工程片道二十二キロメートル、第二工程片道三十五キロメートルはあろうかという冬の山越えを、一台八〇キロはくだらない物資の乗ったソリを合計十四台引いて戻ってくる一泊二日の計画が遂行されるのである。


 上層部の急な人事異動でロクな引き継ぎもできておらず、地元民の忠告を軽視し、経験不足の士官級たちの軍内での各々の立場が最悪の形で発揮され、「検証訓練」となるはずだった雪中行軍は「死の彷徨」へと変貌した。

 極寒の中、初日から頓挫した計画で進退極まり露営するのだが十分な対策が取れずに、ただただ消耗戦が繰り広げられることになる。


 生存者が辛うじて救助された五日後までの間、天候は荒れに荒れまくり、訓練参加者総勢二一〇名のうち、実に一九九名が犠牲となった。

 犠牲者の回収さえも困難を極め、のべ十一日間かかったという。


 教訓を得るには余りに大きな犠牲を払い過ぎたが、この大惨事を契機に見直された軍備は、現在の陸自や冬山登山および救助活動にも受け継がれている。

 例えば、「寒中での食糧は懐で暖めておく」や「指先などの末端の保温には五本指タイプよりもミトン型が向いている」あるいは「休憩や緊急避難場所は風の避けられる場所を選び不用意な体力消耗を避ける」といった、現在では「常識」とされている事柄なども含む。

 そして一番は、自然相手に慢心しないことだろう。

 常に人智を超えてくるのが自然現象というものだ。


 当時の日本では二十歳になった男子には徴兵制が課せられていた。

 八甲田で犠牲になった軍人も多くは元々一般人だった。

 彼らの見舞われた苦難は想像を絶する——静かに冥福を祈りたい。

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