一月十七日 阪神淡路大震災が発生した日

 平成七年(一九九五年)一月十七日、午前五時四十六分五二秒——兵庫県淡路島北端、明石海峡を震源とするマグニチュード七・二を記録した大地震が発生した。

 当初は兵庫県南部地震と呼ばれていたが、その被害規模と状況からのちに阪神淡路大震災と改められた。

 六甲山の裾野に張り付くように広がり大阪湾に面する神戸の街はわずか十五秒ほどで、ほぼ壊滅状態となった。改めて自然の脅威を思い知った。


 震源の深さは十六キロメートルと浅く、典型的な内陸直下型地震と分析されている。神戸の街を中心に関西広域に甚大な被害をもたらした災害だった。

 橋脚の根本から倒れた阪神高速や、至る所で巻き起こる火災旋風の空撮映像は覚えている人も多いことだろう。


 死者六四三四名、行方不明者三名、負傷者四万三千七百九十二名——倒壊した家屋は住家、非住家合わせてのべ六十八万棟にものぼった戦後最大規模(当時)の大災害だった。

 筆者一家と伯父一家は当時大阪に居を移していたため、辛くも直撃を免れたが、祖父母や親戚の多くは被災者となったし、はとこ一家はこの災害で命を落とした。

 この地震で最も多くの人命を奪った原因は家屋の倒壊——圧死だ。はとこ一家も例に漏れず、地震発生直後に崩れ落ちてきた上階の下敷きになった。


 祖父母宅も当時としては堅固な造りの十階建集合住宅だったが、五階と六階部分は完全に押し潰されて外壁も崩れ落ち辛うじて建っているという診断上「全壊」という有様だった。

 ほとんど寝巻き姿で真冬の屋外へ避難し、近くの小学校の体育館で被災生活を余儀なくされた。

 鮨詰め状態で水も食糧もない環境で、行政よりも自衛隊よりもいち早く炊き出しに動いたのはテキ屋のおっちゃんたちだった。

 学校前の通学路にずらりと並んだ色とりどりの屋台と、ほかほかおにぎりは子供心に鮮明に覚えている。


 私が母と共に祖父母の元へ必要最低限の生活用品を届けることができたのは、震災から一週間後のことだった。

 何とか阪神電車が始発の大阪梅田から東神戸の御影みかげ駅まで仮設ホームで運行を開始した。

 途中、西宮に差し掛かったあたりから家々がまばらになって瓦礫の山が散見される光景には愕然とした。

 御影駅から先はとてもじゃないが線路などぐちゃぐちゃで、阪神バスの仮運行に切り替えられていたのだが、超満員で何時間も並ぶことになるし、祖父母のいる中央区の避難所までは徒歩で二時間半ほどかけて向かった。


 行きは通れた国道沿いの道が、帰りには脇のビルが道路に向かって倒壊し通行止めになっているのは、震災後の日常茶飯事だった。


 祖父母へ数日おきに何度も物資を運ぶ傍ら(避難所じゃ洗濯とかできないからね)幼いながら現地で簡易のボランティアもどきの手伝いなんかもした。

 長引く避難生活で弱る高齢者の元にテキ屋の炊き出しをデリバリーする的なものだが、その時「嬢ちゃんも食うてき!」と声をかけられたのは今でもよく覚えている。


「うち帰ったら食べもんあるし、ええわ。今日はボランティアやねん」

「こういう時は体力勝負や、気にせんと一緒に食うてき!」


 強面のおっちゃんの人情味溢れる優しい言葉だった。

 過酷な状況でほとんど寝ずに災害救助と被災者のためにテント風呂を設営していた自衛隊員も印象深い。自分達はほとんど野宿状態で冷たいご飯を食べていた姿も衝撃だったことは覚えている。


 現在の神戸や阪神沿線を見ていて、よくぞここまで立ち直ったと思う一方、この時に神戸市財政が抱えた莫大な借金は、未だに返済が終わっていないという現状はどうしたものかと悩ましくもある。

 そして、いずれ来る大地震に備えて少なからず備蓄はしている筆者である。

 真冬の被災で寒さは脅威だ。出かける時はカイロを必ずカバンに忍ばす習慣が身についた。

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