一月十一日 冠位十二階やってみた
飛鳥時代に導入された日本で最初の階級別国家公務員役職制度——聖徳太子によって推古天皇十一年(西暦六〇四年)一月十一日に制定されたといわれている。
それまでの日本の国政は、ばっくりと有力地方の有力豪族がそれぞれにそれなりの権力を持っていて、それは世襲で受け継がれていた。
外務大臣の子は外務大臣、環境大臣の子なら環境大臣という具合で、出来がイマイチ君であったとしても肩書きは勝手についてくる。
片や、いくら優秀でも家柄に恵まれないと出世もままならない——そんな時代だったそうだ。
そして時に、国家公務員の権力は天皇やそれに準ずる者たちよりも絶大だったという。
「どげんかせんといかん!」
というわけで、天皇集権国家を目指した法整備が進められることになる。
お手本にしたのは当時の朝鮮半島や隋の科挙制度だったといわれている。
聖徳太子は遣隋使派遣もしているし、自身は高句麗から仏教を、百済からは儒教をそれぞれ学んで国家公務員の役職制度の草案をまとめていったという。
その結果、次のとおり階級が定められた。
一番下の階級から順に「智」「義」「信」「礼」「仁」と上がっていき、これら五つを統括するのが一番上の階級である「徳(五徳)」とされた。
この六階級にそれぞれ「大」と「小」が設けられて合計十二階となる。
そして、この十二階にはそれぞれ五行の色を基準に決められた色調があったとされている。
便宜上、下の階級から順に「黒」「白」「黄」「赤」「青」と定められ、最も位の高い色が「紫」、その中で更に「大」は濃色「小」は淡色で表現されていたとされているが、どの役職に何色をあてがっていたのかは実際のところ不明だったりする。
染め物の難易度が高い色ほど高貴(=貴重)な色だったと仮定して、おそらくはこうだったのではないか——という考察らしい。
とりあえず、傍目からも誰が何の役職かパッと視認できるような制度だったという点が重要であるもようだ。
そして、優秀な人材は家柄出自に関わらず登用できる仕組みが出来上がったというわけだ。
任命権は時の天皇(この場合、推古天皇)と摂政である聖徳太子と、なぜか蘇我氏(蘇我馬子)にあったという。
皇統でも何でもない一豪族(要するに本来なら臣下)であるはずの蘇我氏に任命権がある……というのは何とも不穏だ。
おそらくは、天皇集権側の妥協案だったと思われる。
(それほど、蘇我氏の権勢は無視できない規模だったのだろう)
蘇我氏の末路は史実のとおりだと悲惨なものだが、聖徳太子にしてみれば、当時の海外列強(主に中国)を相手に対等な外交を展開しようとすると必要な措置だった——その第一歩が冠位十二階だったと理解できるのではなかろうか。
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