一月六日 風月堂がケーキの広告を打った日

 日本で初めて「ケーキ」の広告を打ったのは、上野風月堂だったそうだ。

 ゴーフルでお馴染み、あの風月堂である。

 明治十二年(一八七九年)一月六日、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の紙面上に西洋菓子を売り込む文言が掲載されたという。

 ばっくりとした内容は次のとおりだ。


「文化は日々明けていき、すべてのものが西洋風になっているが西洋菓子を作っているものは(今のところ、日本には)いません。そこで当店は外国から菓子職人を雇ってケーキを作り博覧会に出店したところ大好評でした。ぜひご賞味ください」


 実際に上野風月堂の歴史沿革を確認すると、広告を打つ二年前である明治十年(一八七七年)に開催された第一回勧業博覧会において、風月堂は鳳紋賞を受賞している。

 この時の褒賞は龍紋、鳳紋、花紋が用意されていた。

 国立公文書館の資料を参照すると、当初の予定では、この紋賞には一から三等級の階級分けがされていたようだが、博覧会開催直前に等級は撤廃されている。


 理由は定かではないが、当時の内務卿大久保利通の指図があったとかなかったとか、参考にした海外の博覧会ではそもそも等級制度がなかったからとか、第一回開催ということもあり、何やかんやで受賞基準がふわっとしていたからとか色々言われている。

 初回の受賞者は全体の三割程度にあたる五千人(店)ほどいたそうだから、今で言うところの、モンドセレクション○賞受賞みたいなイメージだろうか。


 その実績を我先と販促に利用したのが風月堂だったと言い換えてもあながち間違いではなさそうだ。明治時代の新聞広告は現代のSNSばりの影響力がある。

 実際に随分と盛況だったもようだ。

(因みに、明治七年にリキュール・ボンボン、二十五年にはマロングラッセを発売開始している。ハイカラにも程がある)


 ところでこの風月堂、どうも元は上方(大阪)の呉服商だったという。


「お江戸には美味い菓子ないんやて」

「んな、アホな。ほな美味い菓子屋作らな」


 というわけで、延享四年(一七四七年)に上方から江戸へ下って(上京とは言わない)菓子屋「大阪屋」を開店したのが全ての始まりだったという。

 その後、文化年間(ばっくり一八〇〇年代初頭)に屋号を「風月堂」に改めているのだが、二〇二二年で創業二七五年という立派な老舗である。

(これが京都になると、創業三百年を越えないと「お若いな」という反応をされるイケズあるある。まあ、創業八百年越えのあぶり餅屋とか、実際あるからね)


 さて、正月料理もひと段落つく頃合い。少し小洒落た甘いものが欲しくなる良いタイミングである。

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