一月三日 鳥羽・伏見の戦い勃発
慶応四年(一八六八年)一月三日、当時の京都近郊。
鳥羽伏見において薩長率いる新政府軍 VS 鳥羽越列藩同盟からなる幕府軍が武力衝突し、その後一年三ヶ月あまり続く近代日本最大規模の内戦へと発展した最初の戦いが起こった日。
海外列強から目をつけられた当時の日本にとって、幕末の混乱期の中でも特に血生臭い事件を多数抱えた時期でもある。
政治の中枢であった当時の幕府にとって、薩長土佐の蜂起は看過できないクーデターであったが、相手は今上帝の名の下に集い錦の御旗を掲げてきたため、扱いとしては幕府軍が「朝敵」ないし「逆賊」とされてしまう。
(実際、幕府軍には天皇制撤廃なんて考えはなく、あくまでも従来どおりの「政権」の中枢を維持する目的での決起だった。一方で、幕府体制下では「文化」の中心であった朝廷は、俄然「政治」の実権を獲りにきていたという構図)
幕府軍およそ一万五千に対して新政府軍およそ五千という兵力差があったとされているが、絶対的後ろ盾のあるヤル気満々の新政府軍に対して「朝敵」扱いされた幕府軍は、いざ鳥羽伏見に雪崩れ込んだものの統率には乱れが生じ、結果惨敗を期すのである。
クーデター藩(幕府にとってはテロリストみたいなもの)を叩くつもりで出陣したら、「おまわりさーん、この人でーす」と政治犯にされていたような感覚だろうから、現場の武士は戸惑ったことだろう。
ここから戦場は東へ移りながら最終、北海道まで転々と続いていく。
その過程が、江戸城無血開城であり、東北戦争であり、会津戦争であり、箱館戦争であった。
これらの戦争が起こった年が干支で言うと「戊辰」であったため、全部ひっくるめて後世「戊辰戦争」と表現している。正直、ひとまとめにするには、個々の戦争の内容も意味合いも非常に重いのだが、とりあえず便宜上、そう呼ばれている。
全てを俯瞰すると、容赦無く押し寄せる海外勢(彼らに鎖国体制化の従来日本の常識は通用しない)に対抗するには名実ともに「日本を統一」しておかなければならない、という側面も確かにあった。
その結果、意見を異にする日本人同士で多くの血を流す最悪の事態に発展したわけだが、それもまた大きな時代の転換期の一コマに過ぎないのかもしれない。
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