十二月二十日 果ての二十日(斎日)

 一年の最後の月——十二月を師走しわすと読むのは割とメジャーだが、「果ての月」という呼び方もある。

 古くは京都や奈良に由来する近畿地方では身を慎んで家でおとなしくしている日——それが十二月二十日だった。


 この日に何をしていたかというと、京都では市中を引き回された罪人が都外れの刑場で処刑されていた。

 それが粟田口あわたぐち(現在の京都市左京区)で、ここは江戸から上京する旅人が京都へ入る玄関口に当たる土地だった。

 翌日には納め弘法(真言宗のお仕事納め。京都なら東寺が弘法大師縁)を控えていて、本当に年末最後の大仕事という感じの日程だった。

 市中を引き回される罪人は京都の北、一条戻り橋で来世の真人間を願って供物をしてから刑場へ向かっていたという。


 余談だが、現在でも一条界隈は百鬼夜行で地域起こしをしていて、地元商店街ではお化けストリートをわざわざ作っていたりする。

 店前にしれっと置いてある愛嬌たっぷり一つ目小僧や二階の窓から通りを覗き見しているろくろ首など実に楽しい。

 ついでに付近は西の厄除け守護、大将軍八だいしょうぐんはち神社(筆者の推し神社)や北野天満宮、桜で有名な平野神社や祭神安倍晴明という晴明神社がひしめいていて、観光地とのバランスもガッツリ取っている逞しい商魂が素晴らしい。


 話を戻す。

 もう一つ、軸足を和歌山から奈良に置くと同じく「果ての二十日」をすぎると山へ立ち入るのを控えるという風習があったそうだ。

 和歌山竜神村から奈良十津川村へ跨る果無山脈は、古くは大和国と紀伊国の国境として機能しており、昨今尾根トレッキングや果無トレイルと称して人気を博しているが、元は修験僧が行き来するような山々の連なる深山幽谷だ。


 この一帯に二十日を過ぎて入山(峠越え)すると、「一本だたら」なる一つ目一本足の妖怪に喰い殺されるという言い伝えが残っている。


 オカルト話を差っ引いても、元々紀伊国などは時の権力者に堂々と喧嘩を売るような気性の熊野や雑賀さいが根来ねごろや高野といった歴史的に見ても荒事にも怯まない人々が根城にしているような土地柄だ。

 案外、その手の崩れ者やはぐれメタル(違)が峠越えをする旅人を追い剥ぎしていた可能性は否定できない。まして冬山越えなどしようとする者はきっと恰好の餌食だったことだろう(憶測)


 それらの注意喚起か、「果て(十二月)には人が無し」が転じて果無山脈と呼ばれるようになったそうだ。


 実は淡路島や琵琶湖よりも広い面積を誇る奈良十津川村——ここで日夜鍛錬していた通称「十津川郷士」なんかも最強SP軍団として御所の警備や幕府、果ては明治政府なんかから声がかかるような猛者たちだった。

 彼らが敵わない相手は自然災害くらいとまで言われていたそうだ。そんな郷士の一部が入植し、開拓したのが北海道新十津川村だったりする。

 まさに果ての無い話だ——おっと、お後がよろしいようで。

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