十二月十八日 東京駅完成記念日

 東京丸の内——四百年ほど遡るとそこは東京湾の一部として海没していた土地だ。江戸時代に開拓され、大名屋敷が立ち並ぶ賑やかな一帯となったが、明治時代に入り大名屋敷が立ち退くと何もない平野と化した。

 東京駅が建つ前の丸の内とはそんな場所だった。


 政府主催の競売で相場の三倍近くする法外な値段で(やむを得ず)その土地を買い取ったのが三菱だ。現在も界隈に三菱地所絡みのビルが多く建ち並ぶのはそういった経緯があってのことである。

 明治から大正を跨ぎ、およそ六年半を費やし東京の玄関口として中央停車場(のち、東京駅に改名)が完成したのは大正三年(一九一四年)十二月十八日のことである。


 総工費約二八〇万円(現在の価値だとおよそ三十億円)をかけた煉瓦造り、円形ドームの屋根を持つ地上三階建て、辰野金吾設計(鹿鳴館を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの教え子の一人)による壮麗な西洋建築の代表だ。

 皇居の正面にあたる立地から貴賓専用口なども設けられた、まさに日本の顔だった。

(西洋建築を取り入れたくて最初はドイツ人建築家に設計を依頼した明治政府だったが、出来上がった図面はどう見ても「和テイスト」だったため、あとで辰野にこそっと再依頼して現在の姿になった——というコソコソ話があったりなかったりする)


 この東京丸の内駅舎は、当時の最先端技術を駆使して建設されたため東京の九割が消失した関東大震災でも、ほとんど被害を被ることなく済んでいる。

 この姿が失われたのは昭和二十年(一九四五年)の東京大空襲だった。

 降り注ぐ焼夷弾は駅舎の屋根を軽くぶち抜き、内装もほとんどが焼け落ちた。


 戦後の再建を急ぐにあたり、資材と財源の不足が理由で、よりシンプルな直線的傾斜屋根の二階建て案が採用されたという。

 再建設に駆り出されたのは職を失った元軍人だったそうだ。当時携わった者の証言に「四年たせてくれたらそれでいい(財源が確保できたら、ちゃんと元通りに復元するから)」と言われていた突貫工事の予定だったが、実際にはその後数十年に渡り仮の姿で駅舎は運用を続けられたというわけだ。


 平成二十四年(二〇一二年)に大規模復元改修が無事に終わり、現在、東京駅には元の円形ドームと三階部分が戻ってきた。外観だけでなく当時の資料や設計図を綿密に調べ上げたうえで内装も修復されている。


 地上ではそんな感じだが、実は東京駅の地下鉄道部分は地下水脈の上に浮いており、年々水位を増す水の圧力に耐えるためアンカーボルトで地下岩盤に強力固定しているという。

 碇を鎮めて船を固定している海を想像すると近い感じだ。

 元々地下水源の豊富な土地柄、その昔は地下水を自由に汲み上げることができていたのだが、そのせいで中央停車場工事が始まる前の一帯は地盤沈下が著しく、地下水汲み上げが禁止されたそうだ。すると、じわじわ地下水脈が蘇り、今度は駅舎をぶりぶり押し上げ始めることになった。

 その対策として浮上を防ぐアンカーボルトと、地下水を汲み上げて地上河川に流すポンプが常時稼働中なのだという。

(おかげで河川の水質改善にも一役買っていたりする)


 現在、東京駅と上野駅の二箇所で同じ措置が取られているそうだ。見えるところでも見えないところでも駆使される時代の最先端技術——これからも日夜続けられていくのだと思うと頭が下がる。

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