十二月十六日 念仏の口止め

 十三日に正月事始めを迎え、年末年始に向けての準備が忙しくなる頃、年神様を迎えるにあたり仏事を遠慮するという古い風習があったという。

 それを俗に「念仏の口止め」と言い、地方によって多少日付は前後するのだが、概ね正月事始めに入って数日後から小正月(十二月十七日〜翌年一月十五日あたり)までのおよそ一ヶ月間、念仏自粛期間が設けられているそうだ。


 諸説あるようだが、どうやら年神様は仏事がお気に召さないらしい。


 うちは母方の家系が神道、父方の家系が仏教(真言宗)で近い身内や友人知人がクリスチャン。

 私自身はお宮参りを天神さんでしているので産土うぶすなさんは天満宮、生まれの守護仏は薬師如来、恩師や友人の手伝いで教会行事の奉仕をしているという緩い感じだ。

 加えて神社仏閣教会参りと、讃美歌奉唱や大祓祝詞のことあげ、写経(般若心経)を趣味とする宗教チャンポンな環境で育って久しいのだが、正直、年神様が念仏嫌いというのは初めて聞いた(汗)


 実家や祖父母の本宅では、神棚と仏壇を並べて配置していたし(向かい合わせにはしていなかった)、カミサマもご先祖さまも同様に大切に扱っていたので、あんまりピンとこないのだが、仏事=死を連想させる念仏はけがれを嫌う神道的考え方とは合致しないということらしい。


 確かに、身内に不幸があって喪中期間は神道徒も神社へのお参りは控えるのが通例だ。

 柏手かしわでは祝い事のために打つものだから、忌中はカミサマへのご挨拶を遠慮して故人に対して忍び手を合わせる(寸止めして音を立てない拝み方)という作法が一応ある。

(でも、神道では死んで五十日経つと故人はカミサマになるから、柏手に切り替えてお祀りする。以後の行事は○◯祭と表現する)


 理屈としては分からなくもないのだが、だからと言って「念仏あかん」は仏教徒にしてみれば気分の悪い話だろうなと思うわけだ……(個人の主観)

 むしろ、「年末年始の準備で超忙しいので、すんまへんけどちょっとの間、御念仏(=お勤め)堪忍してもらえまへんやろか」という言い訳に利用していると考える方が、よっぽど腑に落ちるというものだ(個人の主観。二回目)


 もっとも、現在ではほとんど廃れてしまった習慣だという。

 めくじら立てずに唱えたければ御念仏を唱えて何ら差し支えないだろうけど、「お互い様の譲り合い」という精神ならそれもそれでアリなんだろう。

 さて、せっかくなので写経納めでもするか。


(ちなみに、お写経は私の場合、所縁のある奈良の新薬師寺にお納めすると功徳が積めるというので地味にポイ活を楽しんでいる)

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