十二月十四日 赤穂浪士四十七士、吉良邸に討ち入り果たし候(忠臣蔵の日)
昨今、地上波ではほとんど供給のなくなった時代劇だが、かつて十二月十四日になると恒例として放映されていた年末の風物詩がある。
それが「
なかなかどうして寂しいことだが、このタイトルを聞いてもピンとこない若い世代が増えたという。
「おのれ、
「
エンタメ配給として多少の脚色は施されているが、現代風にいうと上司のモラハラと理不尽な社会的制裁が招いた若手社員の自殺と元部下によるざまあ(違う)、もとい仇討ち英雄譚(ただし非公式)として語り継がれた事件が元になっている。
俗に「
ことの発端は元禄十四年(一七〇一年)旧暦三月十四日、朝廷の使者を接待中だった江戸城、松の大廊下で起こる。
天皇陛下の使者を接待するという重役を担った若手社員、
詳細は本人の胸の内にしか無いのだが、一説によると事前準備の段階から上司のモラハラと極度のプレッシャーが原因で精神的に参っており、咄嗟に斬りかかった時には半ば心神耗弱状態だったのでは、と後世考察されている。
カッターナイフなら上司も所持していたのだが、突然のことで応戦する間もなく、幸い軽症であったため命に別状はなかったが、厳戒態勢の超重要国家行事中に起こった事件とあって五代目社長、徳川綱吉(愛犬家)は大激怒する。
問題が起これば取締役会で審議の上、両者平等にペナルティを課されるのが通例だったのだが、この時は社長の独裁で若手社員に一方的な非があると断定され、即日
かたや上司は一切のお咎めなしだった。
これは当時から、あまりに不公平と取締役会でも世論でも問題になったのだが、若手社員は同日定時上がりで
若手社員が支店長を務めていた赤穂支店は、この知らせを受けて愕然とする。
支店長が突如退職した上、従業員一同は速やかに支店を本社へ明け渡すよう追加で通達されたのだから当然だ(退職金も猶予もない)。
支店長代理を務める
陳情としては、広島の実家にいる支店長の弟を新しい支店長に立てて赤穂支店の存続を認めてもらうべく一年を費やし方々に働きかけるのだが、本社の方針は結局覆らなかった。
その間、情報収集すればするほど、若き支店長に下された処罰の理不尽さと境遇が浮き彫りになり、大石は元支店長代理として志を同じくする四十七名の元部下とともに、支店長への忠義と
じゃあ早速——と上司宅に押しかけたのではなく、事前に元部下たちを上司宅周辺に張り込ませ、日用品を扱う個人商店を開業させて上司の身内と懇意となり、また上司宅の出入り業者となって上司の行動と行事予定を綿密に調べ上げた上で討ち入りを決行しているのである。
一方の上司はというと、薄々身の危険を感じていたのか嫁の実家(上杉家)に
元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日(新暦一月三十日)午前四時頃——未明の吉良邸に三分隊に別れた赤穂浪士四十七士が集結する。
浪人ではなく武士として討ち入り、散る覚悟の固まっている彼らは異変に気付いた隣家(
「わたくしどもは浅野内匠頭の家来です。主人の
土屋も一連の騒動には思うところがあったようで、彼らの礼儀を弁えた陳情を承知し、口出しすることなく隣家の顛末を見届けている。
四十七士は圧倒的警備数を物ともせず、誰一人討ち死にすることなくおよそ二時間後、台所わきの炭小屋に隠れていた寝巻き姿の上野介を討ち本懐を遂げるのである。
「ただいま吉良上野介を討ち取りました。
彼らは事後にもちゃんと隣家に報告と騒がせたお詫びを入れている。
討ち取った首は支店長の眠る泉岳寺に供えて仇討ちを墓前に報告し、自分たちはそのまま公儀の沙汰を待つことを公言している。
その姿勢に、元凶となった愛犬家は「
本来、仇討ちとは公儀の許可があって初めて成立するものなので、四十七士の行いは当時の法律上、私情による犯罪とみなされる。
しかし、ここに至るまでの経緯を
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