十二月三日 カレンダーの日

 昭和六十三年(一九八八年)、日本の団扇、扇子、カレンダーのメーカー及び販売会社で構成された業界団体「全国団扇扇子カレンダー協議会」が制定した記念日。


 制定日のきっかけとなったのは、明治五年(一八七二年)十二月三日をもって導入された太陽暦に伴い、いきなり日本のカレンダーが同日、明治六年元旦になったことに由来する。

 それまでの日本は太陰太陽暦(天保暦=旧暦)を基準としていて、十二月二日の翌日がいきなり太陽暦(西暦=新暦)一月一日になったわけだ。


 明治政府がある意味強行とも言える手段に打って出たのもまた、諸外国に舐めてかかられていた当時の時代背景が大きく影響していると言える。


 太陽暦の原型は紀元前のエジプトで既に導入されていて、その流れを受けたカエサル時代のローマ帝国が当時のヨーロッパに広く普及させ(=ユリウス暦)、ぐっと時代を降って十六世紀のバチカンで暦計算をマイナーチェンジしてからは「グレゴリオ暦」として欧米スタンダードに収まっていた。

 そんな欧米に倣え、そして不平等条約の改正交渉するぞ、という明治政府の勇足政策だったというわけである。

 要するに目的が欧米と交渉という外交に向いていたから、国内はむちゃくちゃ大混乱した。


「ちょ……っ、年末どこいったん !? 」

「いや、月末の給料もうてないし!」


 月の大小を二十九日と三十日で構成する太陰太陽暦では、閏年は十三ヶ月で一年という計算をしていた。

 明治五年は閏年にあたり、本来なら「十二月が二回あった」のだが、半強制的に太陽暦に切り替えたことで、その「二回目の十二月と残り二十数日間がスパッとどっかに消えた」というリアル時間泥棒が起こったことになる。

 庶民生活がいかに混乱したか想像に難くない。

 もはや閏年狙い撃ちで暦変更のタイミングをぶつけたんだろうと思わざるを得ない(経営者目線。なんちゃって)。


 そして混乱はじわじわと細く長く続いており、しばらくは西暦と旧暦を併用することになる。

 例えば、種まきのタイミング、収穫のタイミングなんかが代表的だが、庶民の実生活においては旧暦が重要な役割を占めていた。

 一説によると、暦の併用は戦後である昭和二十二年(一九四七年)時点でも確認ができているそうだから、混乱とかいうレベルを遥かに凌駕した大問題だったことが偲ばれる。

 もっとも、西暦に転換した現在も旧暦の名残はしっかりとカレンダーに記されている。

 それが当作でも度々取り上げる太陽黄経を基準とした暦の名称「春分や秋分」「夏至や冬至」「小満しょうまん芒種ぼうしゅ処暑しょしょ降霜こうそう」といった季節の変わり目を示す言葉——二十四節気である。

 先月「小雪しょうせつ」を過ぎたが、そろそろ次の節気である「大雪たいせつ」がくる頃である。

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