十一月十七日 スエズ運河が開通した日
アフリカ大陸の端っことアジア大陸の端っこが、ちょんっとくっ付いた辺り。ヨーロッパ文明を育んだ地中海と中東の要所、紅海を隔てる狭い界隈に大型輸送用の運河(スエズ運河)が開通したのは、明治二年(一八六九年)十一月十七日のことだ。
諸説あるが、元々スエズは紀元前一三〇〇年頃、古代エジプト文明でも一部活用されていた淡水輸送路だったという。
しかしその用途は限定的で、尚且つ古代王朝の滅亡とともに砂漠に埋没してしまったとされている。
運河が開通される以前のヨーロッパからアジア圏への輸送手段は、ぐるーっとアフリカ大陸を外回りするか、地中海で一度荷上げし、そのままインドまで陸路を行くか、あるいは紅海で再び海上輸送に切り替えるなど、とにかくコストもリスクも高い方法しかなかった。
スエズに効率的な輸送航路を確立するために、真っ先に目をつけたのがナポレオン時代のフランスだったりする。
(良くも悪くもこの人が世界に与えた影響はデカい)
ここで活躍したのが、フランス人実業家であり外交官でもあったレセップス(本名フェルディナン・マリ・ヴィコント・ド・レセップス)である。
当時のエジプト総督の息子の家庭教師もしていたとかで、ズブズブの関係から運河建設の許諾を取り付け、早速スエズ運河会社を設立し、サクサク建設に取り掛かる。
しかし、工事は難航を極めた。
動員されたエジプト人従事者(大半が農民)は常時、数万人にのぼったとされるが、一説によると、そのうちの半数は労働環境の過酷さから命を落としたとも言われている。
また、当時のエジプトの宗主国オスマントルコと、とりあえずフランス嫌いのイギリスが運河建設をとことん妨害する。
あんまり邪魔するので、運河開通の利便性をわざわざイギリス本国までプレゼンしに行くのだが、その度に回し蹴りされる始末だった。
だが、イギリスもスエズの利便性は重々理解していた。
その上で、開通した暁にはフランスの独壇場になることが気に入らなかった。
この頃のイギリスは、インドを実質的な支配下に置くために日々ジャイアン化に勤しんでいたのだが、スエズが通るとその覇権が脅かされるという危機感があった。
そんなこんなを経て、何とか開通したスエズ運河はフランスとエジプトがそれぞれ大株主となるのだが、着々とジャイアンは暗躍する。
この頃のフランスは、お隣プロイセンとの戦争でボロ負けして運河どころじゃなく、名目上は大株主だったエジプトは「株はあってもカネがない」というド貧乏に陥っていた。
その隙を突くようにエジプト株をジャイアンが丸っと買い取った。
これで実質スエズ運河は、俺様何様イギリス様の支配下に置かれることになる。
国際協調性はゼロ。
ヴィクトリア王朝時代——ぶりっ子天邪鬼(略してブリ
当然、株とともに多方面の反感を買う。
今後の中東戦争の火種を撒き散らすブリ天だ。
しかしイギリスも潤沢な財政状況であったわけではない。
イギリス政府を陰から資金援助し、ゴリゴリの権力を手に入れたのはロンドン・ロスチャイルド家だったりする(ロスチャイルドはこの頃から歴史の表で台頭するようになる)。
そしてロスチャイルド家は、カネをチラつかせてイギリス政府に要求する。
「ユダヤ人の国欲しいわぁ」
戦後、中東パレスチナの地でゴリ押しがまかり通った結果、現在まで泥沼の中東戦争を繰り返すことになるのだ。
しれっと明後日を向きながら火種を撒き散らすブリ天だ。イギリスとはこういう国である(二回目)
そして肝心のスエズは、同じく戦後エジプトがダムを作りたい財源確保のために(勝手に)国有化を宣言して、ブリ天とフランスをガチギレさせている。(=第二次中東戦争)
(でもいつの間にか隣でソ連がコサック踊ってたりするので、最終的に英仏は独占的利権を喪失したよ)
どろっどろの歴史を抱えるスエズ運河は、今日もヨーロッパからインド、アジア圏を繋ぐ物流の要所として現役稼働しているというわけだ。
今年三月に日本船籍の輸送船が座礁し、エジプト政府との間で賠償沙汰になったというニュースは記憶に新しいスエズ運河である。
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