十一月十一日 西陣の日

 文明九年(一四七七年)十一月十一日。

 時は室町時代の末、京都を舞台に繰り広げられた十一年に及ぶ権力闘争——「応仁の乱」が終結したとされる日。


 一般的に「先の戦争」と言えば、大抵の日本人が「第二次世界大戦」と答えるが、京都の人はなぜか「先の戦争」というと、この「応仁の乱」と認識している捻くれ者が一定数存在する。

 もっとも、この幕府の内乱(実態は次期将軍をめぐる後継者争い)によって、当時の京都の大半が焼け野原になったというから、とんでもない規模の跡目争いだったことは間違いない。


 発端となった八代将軍、足利義政あしかが よしまさと正室、日野富子には息子がいなかった。

 そこで、異母弟の足利義視あしかが よしみを次期将軍に指名していたのだが、指名したあとで富子がひょっこり男の子を授かったことが全ての始まりだった。


 自分の息子を次期将軍にしたい富子は、旦那をガン無視して諸大名にゴリゴリ働きかける。

 最終的な代表格が山名宗全やまな そうぜん——のちの西軍大将である。

 すると、そもそも八代目オフィシャルに指名されていた義視についていた細川勝元ほそおかわ かつもとが待ったをかける。こちらがのちの東軍大将である。


 西軍の本陣が置かれたのは、山名宗全の邸宅だったそうだ。

 現在の京都市上京区堀川上立売かみぎょうく ほりかわかみだちうりの辺りだ。民家が立ち並ぶ中にひっそりと痕跡を残している。

 一方の東軍はというと、花の御所(足利将軍邸)に本陣を据える。


 え、どこよ、それ?


 現在の京都市上京区内、烏丸からすま今出川いまでがわ上立売かみだちうりに囲まれた辺りだ。

 大聖寺というお寺さんが御所の跡地である。

 つまり、両陣営の距離はわずか五百メートル程度しか離れていないのだ、まさに目と鼻の先。


 更に同じく上京区上御霊堅町かみごりょうたてまち——ここにひっそりと建立されている「ごりょうさん」こと上御霊神社(財政難なのか、数年前に訪れた際は社殿、宝物庫、垣根等々の傷み具合が激しくて悲しくなった)が「応仁の乱」勃発地(=御霊合戦)である。

 ごりょうさんで御朱印をいただくと「応仁乱東陣」としっかり押印されている次第だ。非常に狭い範囲でごっちゃごちゃしていたのが良くわかる。

 絶対、十一年も戦争するなんて両軍微塵も思っていなかったはずだ。


 いやいや両陣営、もうちょっと考えようよ?

 紅白応援合戦する運動場のつもりだったのかい?


 この争いの末、富子の息子が第九代将軍(足利義尚あしかが よしなお)となった——いつの間にか全国を巻き込んだこのお家騒動が尾を引いて、世の中は力が物を言う戦国の世へと移行していくのである。

 やっちまったな、富子。


 さて、話を冒頭に戻す。


 何だかなあ……と思うところはありつつ、とりあえず両軍、京都の街を引っ掻き回してグダグダのまま終わる。

 戦火を逃れた機織り職人たちが再び京の都へ戻ってきた際、寄り集まって定住したのが西軍の陣営跡地界隈だった。

 これが現在の「西陣にしじん」である。

 それを記念して西陣織工業組合を含めた西陣織関係社、十三団体が合同で制定した日が本日「西陣の日」というわけだ。


 上京区に鎮座する今宮いまみや神社は、洛中らくちゅうの北を守護する要とされている。

(京都旧市街=洛中は風水的に東西南北を「大将軍」と呼ばれる厄除けの神様で固めている。「北の大将軍」は今宮神社の北の末社に祀られているよ)

 もれなく西陣の守り神である。

 別名、玉の輿神社とも呼ばれていたりするが、今宮さんのお守りは伝統的に西陣織で作られているので、お参りの際はぜひ寄って見てみてほしい。


-----

公開後、西軍表記を一部修正しました。

勝った負けたとか言っちゃうと、それはそれで問題になるので訂正しました(深謝)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る