十一月九日 ベルリンの壁崩壊

 第二次世界大戦後の傷跡であり米ソ冷戦の象徴でもあったドイツの東西分断——首都ベルリンはその立地から東ドイツ領に位置していたが、大人の事情で首都内部もまた東西にばっくり分断されてしまった。


 東ドイツに残された西側諸国の飛び地——それが当時の西ベルリンだった。

 資本主義社会の窓口から西側諸国へ亡命する者が後を経たず、東ドイツ政府が物理的に壁で閉じ込めて封鎖していたのが「ベルリンの壁」と呼ばれていただ。

 巨大なコンクリート壁の外(東側)には武装した国境警察が配備され、許可なく壁を越えようとする者は容赦無く逮捕、最悪の場合は射殺された。

 仕事でどうしても「西側」へ行かなければならない人も東側に残る家族がもれなく人質となっていたような時代だ。それでも、「西側諸国へ行きたい」という者は後を絶たず大量出国が相次いでいた。

 それが、つい三十年ほど前までの戦後ドイツの姿である。


 締め付け一辺倒の政策で強制的暴力的統制化に置かれた東ドイツだったが、市民の反感は根強く次第に大規模デモが展開されていくことになる。


 転機となったのは、平成元年(一九八九年)十一月九日の東ドイツ政府による公式記者会見の場での質疑応答だった。


 政府の公式会見では、あくまでも「旅行に関する規制の緩和」を目的とした法令を整備する旨を発表する予定だったのだが、スポークスマンとして登壇したギュンター・シャボフスキー氏(以下、シャボさん)と他の政府関係者、そして会見場に詰めかけた記者との間には意思疎通に隔たりがあった。


 記者「先日発表した旅行法案、あれ、正直どないなん?」

 シャボさん「え、何かあかん? 勝手によそ様経由されるより自国でちゃんとした方がええやん?」

 記者「いつからやりますのん?」

 シャボさん「え?」

 記者「え?」


 シャボさん自身もばっくりとした内容しか把握しておらず、その上、記者側に事前通知されていると思い込んでいた。

 結果、質疑応答の中でシャボさんは「ベルリンの壁は今すぐ解放しまっせ!」と断言してしまった。

 そしてそれがマスメディアを通して即座に広く市民の知れるところとなった。

 喜び勇んだベルリン市民は、どこから持ってきたのかツルハシやショベルカーでコンクリートをゴリゴリ破壊し始め、壁によじ登って歓声をあげた。


 世の中、うっかりした一言で「ベルリンの壁崩壊」という歴史的偉業を達成することができるのだ——そう、シャボさんならね。

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